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『容疑者 X の献身』 東野圭吾・著

X Marks the Spot
(X ──論理的思考と真実との交点)

悲しすぎるラヴ・ストーリィですね……。

本作品は、テレビドラマでも有名な『探偵ガリレオ』シリーズの小説・第 3 弾です。自分はこのシリーズの作品を初めて読みましたが、何の問題もなく楽しめました。

『容疑者 X の献身』は、物語の骨格だけを見ると、『刑事コロンボ』シリーズや『古畑任三郎』シリーズによく似ています。読者の目の前で殺人事件が起こり、事件を隠すための工作が始まる。そして、事件の真相を暴くために、探偵がかかわってきて──といった感じ。

しかし、この作品は、そう単純な話ではありません。

この物語の「容疑者」となるのは、幾何の問題に見せかけて、じつは関数の問題を作るような数学教師です。彼は、自分の愛する母娘のために、事件を隠そうとする。狂おしいまでの冷酷さで……。

多くの読者は、「容疑者」によって、思いこみによる盲点を突かれているかもしれませんよ。

小説家の二階堂黎人氏は、『容疑者 X』の「真相」を自身のサイトにて公開されています。かなり面白い仮説なので、ぜひともご覧ください。

作品中で探偵役によって語られた「推理」(想像)を真実だと思っている人は、二階堂氏の説にはかなり驚きますよ! それは、のちほど紹介します。

石神の狂気?

数学教師の石神哲哉は、花岡母娘に対して、じつに献身的に動きます。そこには無償の愛を感じる。だから、美しい!

ところが──、だんだんと雲行きが怪しくなってくる。

最初は感謝の念でいっぱいだった花岡靖子が、いつまで、石神の目を盗まねばならないのか(p.139)と考え出したりする。じょじょに石神の存在がジャマに感じるのです。でも、誰も彼女を恩知らずだと責められません。

また、石神のほうも、靖子と接触している工藤なる男を尾行して、証拠の写真とオドシ文句を用意する──(p.223)。

このあたりは、読んでいてゾクゾクしてきました。

花岡靖子の立場から考えてみると、より一層、背筋が寒くなります。ずっと自分を苦しめてきて、娘が殺した男よりも、母娘を救ってくれた男のほうが、恐ろしい存在になる……。何という皮肉なのでしょうか。

読者から見ると、聖人君子のように自分を犠牲にしてきた石神が、急に狂気の面を見せてきて、驚かされます。でも、それ以上に、石神の真意を知ったあとのほうが──そんな愛の姿があるのか、と息を呑みました。

湯川の災難?

「探偵ガリレオ」こと湯川学にとって、本作品の事件は、災難としか言いようがありません。

湯川がどう動こうと、無二の友人である石神は救えない。いや、湯川が真実に近づいたことで、石神の罪は重くなったはずです。

それが、悲しい。

事件の真相とは?

さて、二階堂氏が解き明かす、『容疑者 X』の「真相」は下のページです。

2005.07-122005.11.28-2 の反転部分をカーソルでドラッグすること)

じつはこの仮説は、自分も初めて『容疑者 X』を読んだときに思い至りました。おそらく、これが事件の真相だと思われます。そのため、上のほうで自分の愛する母娘という書き方をしました。

ただし、自分の場合は、推理で仮説を思いついたのではありません。どういうことかというと──、京極夏彦氏のある作品(クリックで作品名が分かる)の真実と似ている、と思ったのです。

そう考えると──、京極作品のとある人物も、石神も、かけがえのない「宝物」を持って世俗から離れていった。この 2 人は、どんな場所へ行っても、至高の(思考の)美を愛でられる。それが、彼らにとって最高の幸せなのでは?

もしこの仮説が真相であれば、湯川からあなたは真実を何も知らない(p.339)と告げられた人物は、何とも哀れですね……。ラストシーンの獣の咆哮のような叫び声(p.394)は、より切なく響きます。

「本格」か否か?

上と同じページの 2005.07-122005.12.05 にて、二階堂黎人氏は、本格ではない『容疑者Xの献身』を、本格だと誤解(無理解)している評者を批判されています。

二階堂氏は、下記の理由から『容疑者 X』は「本格ではない」と断言されている。

この本の真相(湯川の想像)には、読者に対する手がかりも証拠も充分でなく、読者はそれをけっして推理できない。よって、作者が真相であるとするものが最後に開示されるまで、読者は真相に到達し得ない。つまり、そういう結末の得られ方(作者からの与え方)は《捜査型の小説》であるから、《推理型の小説》ではない(=本格推理小説ではない)、ということなのである。

2005.07-12

でも──、本当にそうでしょうか? 読者に示された手がかりから真相(らしきもの)へ到達することは、十分にできたと思います。

どうも、二階堂氏が定義している「本格ミステリィ」という名前に、受け入れがたい原因がある。だれだって、自分の好きな作品を「本格ではない」と言われれば、良い気はしないでしょう。

二階堂氏の定義は、むしろ「様式美ミステリィ」と呼ぶべきではないでしょうか。古き良き様式美を持った作品か否か──、それを問うているように思われます。

格の高低は多数の人間が決めるものだが、美醜は自分ひとりで決められる。

この記事の一行目で書いたとおり、『容疑者 X の献身』が本格だろうが何だろうが、ミステリィだろうが違おうが──。自分にとっては、この上なく美しい、悲しい愛の物語です。

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