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『トロン: レガシー』(Tron: Legacy)

at Aoyama
(人間の限界と自然の強さを示す──傘)

どこか懐かしさを覚える最新 SF でした。


主人公のサム・フリン(ギャレット・ヘドランド)は、子どものころに父親が失踪して以降は、不良になってしまう。そしてバイクで暴走したり、ハッキングして会社に忍び込んだりする。

──それ何て『ターミネーター 2』?

『トロン: レガシー』のストーリィも言ってしまえば、『スターウォーズ』(旧 3 部作)なんですよね。「週刊少年ジャンプ」のマンガ大半も同じだけれど、「父と息子との関係」は物語にしやすいのだろうか?

ということで、本作品は細かいことを考えずに、ひたすら最新の映像を楽しむ映画です。サムがコンピュータの世界──「グリッド」に入り込んですぐに、なんの説明もなく「ゲーム」が始まるスピード感が楽しい。

YouTube - 映画『トロン:レガシー』予告編


ゲームに使われる「ライト・サイクル」(バイク)や「ディスク」(ID 用円盤)・逃走用の「ライト・ランナー」(車)は格好良かった! ライト──ナントカ言うと思われる飛行機(名称不明)での空中戦も素晴らしい。

個人的には、ライト・サイクルやディスクで戦うゲームの場面を、もっと延々と鑑賞していたかったです。映画の 8 割はゲームで良かった気がする。DVD/BD が出たら、リピート再生しよう。

後半に出てくるサムとトロンが戦う場面も、すこし消化不良でしたね。もっとハデにして、「今の時代だからこそ実現できる戦闘」を目にしたかった。


「ケヴィン・フリン」という重要な人物を、前作と同じジェフ・ブリッジスが演じているところも注目です。61 歳のジェフからは、28 年の歳月を感じさせる。前作のファンには、感慨深いところでしょう。

ところが、前作にも出てきた「クルー」という人物(プログラム)は、当時と同じような顔をしている。まるで 30 代のジェフ・ブリッジスそのものなのです!

この「同じ俳優の 30 代と 60 代の姿が共演していること」が、じつは『トロン: レガシー』の目玉だったりする。あまりにも自然な映像であるため、誰も気がつかないでしょうね。

これからは、女優のメイク・アップも CG で──となるかもしれません。

ディスクはきわどい

グリッドでは誰でも──プログラムでも人間(ユーザ)でもディスクを持っている。これは重要なアイテムで、ディスクをなくした場合は抹消される──という恐ろしい警告を受けます。

──それにもかかわらず、プログラムやサムたちは、ディスクを投げ合って戦っている。これはクレイジィな設定ですね! 不思議なことに壁に当たるとディスクは跳ね返るのだけれど、闘技場の壁はかんたんに壊れたりする。

たとえると、『エヴァンゲリオン』がエントリー・プラグ(コックピット)を刀みたいに振り回したり、『ウルトラマン』がカラー・タイマーで怪獣を殴りつけるようなものです。

「そもそもディスクも──というかプログラム自体も、『プログラム』なんだから無限にコピーができるんじゃないの?」──そういう本作品のきわどさを、ディスクは象徴している。

ワイルドなヒロイン

メイン・ヒロインのクオラ(オリヴィア・ワイルド)は、アクションもこなすし頭が良いし、猫を思わせる表情が魅力的です。

彼女の正体は、ストーリィの必然性を考えれば見え見えなのですが──、自分はボーっとしていたので、「お父ちゃんは現実世界を捨てて、こんなところで愛人を囲っていたのか……」と思いました。あるいはメイド・ロボットとか。

途中まで、サムも同じことを考えていたはず……。


ケヴィンにとってクオラは、息子のサムと同様に重要な人物です。そのわりには、彼女の扱いに疑問が出てきました。

たとえば、クオラが敵に捕まる場面がおかしい。敵からすればクオラは、「洗脳して兵士にするための、何万人の 1 人」でしかありません。いつ殺されるのか分からないのです。

それなのに、「大丈夫だ、問題ない」(※そんなセリフではない)とケヴィンは慌てません。

また、グリッド内での最後の場面も不思議でした。クオラの重要なモノを、クルーに取られてしまう。いくらでもニセモノが手に入るアイテムなのだから、わざわざクオラのモノじゃなくても──と思いました。

ダフト・パンクが大活躍(できていない)

重要な人物・ズースのカギを握る男──キャスター(マイケル・シーン)がいる「エンド・オブ・ライン・クラブ」へサムは向かいます。部活でもカニでもなく、古代文明でいうところの、ナイト・クラブですね。

このクラブで何よりも注目するべき点は、DJ がダフト・パンクというところです! いつものようにヘルメットをかぶった 2 人組が、グリッドの世界に溶け込んでいる。

ダフト・パンクと言えば、『Around The World』のプロモーション・ビデオが印象的です。「そう言えば、このビデオにも、トロンのプログラムみたいなロボットが出ていたな」と思って久しぶりに観たら、けっこうダサいデザインで苦笑しました。

YouTube - Daft Punk - Around The World


クラブのオーナであるキャスターが、場を盛り上げるために、ノリの良いミュージックを DJ に注文する場面が出てきます(※セリフはまったく異なる)。

ダフト・パンク:
「こんな音楽で大丈夫か?」
キャスター:
一番いいのを頼む

DJ は、気の効いた音楽を流し始めるのですが──、

──数秒で場面が切り替わって静かになる

ここはズコー! となりました。アメリカでは絶対に、ダフト・パンクのファンがスクリーンにポップコーンを投げつけていると思う。

CG と実写との融合

『ベンジャミン・バトン』でも、「ブラッド・ピットの老人姿」があまりにも自然すぎて、ものすごさに気がつきませんでした。自分が書いた感想にも、まったく触れていない。

ベンジャミン・バトン - 老いていて求めれば若くして豊かな人生 : 亜細亜ノ蛾

これからは、「いかにも CG」という驚きの映像を創り出しても、誰も見向きもしません。一瞬だけ、「わあ、すごいね(棒)」で終わってしまう。むしろ、あとから「あれが CG だったの!?」と叫びたくなるような、自然な CG が主流になるはずです。


上のインタビュー記事を読んで一番ビックリしたのは、ボディ・スーツ(※)の発光部分を本当に光らせていたこと。映画を観ている時には「自然に合成しているな」と感心したのですが、当たり前でしたね。

※: あのボディ・スーツは、一般には「トロン・スーツ」と呼ばれています。でも、あのグリッド内でそう呼ぶのはおかしい。「トロン」はたんなる個人名だから。グリッドの世界では、「ライト・スーツ」と呼んでいるのでは?


実写で撮影する部分と、CG で作る部分との使い分けが進むと、どんな映像でも自然に創造できるのでしょう。そうなると、近い将来には、倫理面と肖像権だけの問題でしょうね。──何がかって?

レオナルド・ディカプリオやブラッド・ピットが、ジェームズ・ディーンマリリン・モンローと共演する映画です!

温故知新はどこまで続く?

幸か不幸か、映画ファンのくせに自分は、前作の『トロン』を観ていません。そのため、純粋に『トロン: レガシー』を評価できる。

そういう目で見ると、何だか意味不明でぎこちないシーンが、ところどころ目につきます。おそらく、前作で似たような場面があって、そのオマージュなのでは──と感じました(ケヴィン・フリンの部屋を探索する場面があやしい)。


近未来を描いた SF 映画でよく言われていることは、「どれも『ブレードランナー』を超えられない」です。自分も、強くそう思う。

この完全無敵な SF 映画は、退廃的な近未来の映像で圧倒しました。観客を──映画監督を──美術担当者を。そのため、「『ブレードランナー』以降」の SF 映画は、どこか似たようなニオイがする。

現実世界では、いっこうに車は空を飛ばないのに……。


『トロン: レガシー』に出てくるグリッドは、近未来の世界ではありません。昔の人間が考えたような未来像──レトロ・フューチャーという感じです。『ブレードランナー』の呪縛を、ギリギリ逃れているようにも見える。

ところが──、親しげな女性プログラムのサイレン・ジェム(ボー・ギャレット)が雨よけに使っているのは、やっぱり「傘」だったのです! この場面を見て、場内で自分ひとりが苦笑していました。

『トロン: レガシー』も『ブレードランナー』も、「収納可能なバイク」や「空飛ぶ車」は想像・創造できるのに、雨が降ったらせいぜい「光る傘」を差すしかない。自然には勝てません。

つまり、傘──「われわれの頭上を覆うモノ」こそが、人間の想像力の限界を現している。

余談

今回も、タイトルはゲーテの格言から借りました。

最も不自然なものもまた自然である。至る処に自然を見ない者は、どこにも自然を正しく見ない。

自然の劇は常に新しい。なぜなら彼女は常に新しい観客を作るから。生命は彼女の最も美しい発明である。死は多くの生命を持つための彼女の技巧である。

人は自然の法則に従っている。たといその法則に反して働いているような時でも。自然の絶頂は愛である。愛によってのみ人は自然に近づく。

ゲーテ格言集』 p.54

自然の美を表した言葉が、なぜか『トロン』の世界観にピッタリです。

グリッドは完全なデジタルの世界だし、「人間」はケヴィンひとりしかいない。だけど、プログラムたちは人間そのものに見えます。それに、人間でもプログラムでもない「彼ら」の存在も、自然や神を感じさせる。

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