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『伊豆の踊子』 川端康成・著

nanadaru (39)
(思ったよりも──かたそうな踊子)

まさか川端康成の名作を紹介する日が来るとは、昔の自分には想像ができませんでした。文学の世界なんて、興味はなかったのです。読んだとしても、探偵小説(ミステリィ)か、好きな映画を小説化した本くらいでした。

そういう人にこそ、この『伊豆の踊子』はピッタリです。なぜなら、川端康成の作品の中でも、この短編は非情に読みやすい。

ただし、現代の日本と比べると、『踊子』で描かれる世界──昔の日本(1910 年代くらい?)は、まるで異世界です。

まず、私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり──と最初に主人公が自己紹介をした時点で、つまずく。「ハタチで高校生──留年?」と思ってしまう。そのほか、「当時の日本」を知らなければ、疑問に思うことが多いです。

そもそも、「おどりこ」って──、何?

ということで、この短編小説は、ファンタジィと思って読みましょう! 分からないところは、自由に想像して補えばいい。

日本人として生まれたからには、川端康成が描く美しい日本語の世界を、一度は体験して欲しいですね。

自分は、上の新潮文庫版で読みました。いまなら、荒木飛呂彦氏が表紙を描いた版もありますよ!

美しさの表現

この「伊豆の旅人」を主人公にした物語には、引用したい文章がいくつも詰まっています。

主人公の旧制高等学校生は、旅先で出会った「踊子」(名前ではない)のことを、このように表現している。

この美しく光る黒眼がちの大きい眼は踊子の一番美しい持ち物だった。二重瞼(ふたえまぶた)の線が言いようなく綺麗だった。それから彼女は花のように笑うのだった。花のように笑うと言う言葉が彼女にはほんとうだった。

『伊豆の踊子』 p.27

ただただ美しいパーツを並べているようでいて、なかなかこうは書けないですよ! なんというか、普通に書くと文章に「照れ」が出てくる。

この引用文からも気がつくと思いますが、川端作品は、「──た。──た。」というふうに同じ語尾が連続します。これは、へたにシロウトがマネをすると、悪文と評価される。気をつけましょう!

自分は数年前から、語尾を毎回変えるようにしています。この記事でも、引用や例の文を除いて、同じ言葉では終わらないようにしている。──このような感じですね。「ですます調」でこの縛りは、なかなかきびしいけれど……。

若き「私」の悩み

『踊子』は、文庫本サイズで 30 ページ強という短い作品です。そのため、あらすじを話すと、数行で終わってしまう。たぶん、どんな話なのか、概要だけを知っている人も多いのでは?

しかし、あらすじだけを知ることは、物語を楽しむこととはまるで正反対です。作者が創り出した世界に対して、半分は身をゆだねて、もう半分は自分なりの意識で歩いてみることが、物語の楽しみ方だと思う。

そう考えている自分は、この物語に出てくる「旅芸人」や「踊子」という当時の職業──生き方を、あえて検索したりはせずに、文章のカケラから想像します。

たとえば、踊子たちがとなりの料理屋へ呼ばれて、太鼓を叩いたり踊ったりする宴の音を、主人公の青年──「私」は耳を澄まして聴いている。やがて静かになると──、

私は目を光らせた。この静けさが何であるかを闇を通して見ようとした。踊子の今夜が汚れるであろうかと悩ましかった。

『伊豆の踊子』 p.17

このように、主人公はひとりでモンモンとしているのです。なんとなく(ハッキリと?)、踊子がどんな存在か──すくなくとも主人公がどう考えているかが、分かりますよね?

この次の日、共同湯で驚愕の展開が!(続きは本書で)

彼女はミステリィ?

自分はミステリィ小説家の森博嗣さんが大好きで、『森博嗣のミステリィ工作室』は座右の書です。彼の口調をマネして、こう断言しましょう。

『伊豆の踊子』は、完全にミステリィです

最初は、主人公の目的も分からずに、たんたんと旅の話が進む。その次には、「踊子とは、どんな女性なのか?」という謎で読者を引っ張っていくのです。

やがて、上で書いた「どんでん返し」的な展開に驚かされるのですが、どのような「オチ」が待っているのか、まるで読めない。最後は急展開にも思えるけれど、しっとりとした良い終わり方です。

不思議の国・ニッポン

現代の日本からは想像もつかないような価値観が、この話では展開されている。とくに、(自称を含む)フェミニストには見過ごせないでしょう。

泉を見つけた旅芸人の「おふくろ」は、飲み水を主人公の青年に勧める。その際に言った言葉は、下記の通りです。初めて読んだ時には、言っている意味が分からなくて、こわかった。

「さあお先にお飲みなさいまし。手を入れると濁るし、女の後は汚いだろうと思って」

『伊豆の踊子』 p.32

このあとにも、「女が箸を入れて汚いけれども」(p.36)と言いながら、おふくろさんは鍋料理を青年と一緒に食べる。言われた青年も、とくに何ごともなく飲み食いするのです。当時は、それが当たり前だったのでしょうね。

ここだけを取り上げて、「だから川端は評価できない!」と顔を真っ赤にするのは、明らかに的外れです。

だけど──、私自身にも自分をいい人だと素直に感じることが出来た(p.34)という好青年の「私」も、踊子に対して「女は汚い」といった感情をすこしは持っていたのかな──と思うと、何だか悲しくなる。

また、物語とはあまり関係がない場面で、とうとつに下記のような「立て札」が出てきて、ドキリとします。これも当時の日本の世情を感じさせる効果的な一文でしょう。マンガで言うと「捨てゴマ」ですね。

──物乞い旅芸人村に入るべからず。

『伊豆の踊子』 p.34

分からないシリーズ

『踊子』を楽しんだあとで、同じ短編集に収録されている『温泉宿』を読んでみると──、これがさっぱり分からない。むずかしい言葉は出てこないし、同じような世界観なのに、誰が何をしているのかが、湯けむりをつかむがごとく──なのです。

いまは長編の『雪国』を読んでいますが、こちらも「よく分からない系」ですね。ただ、性的な描写は書かずに「におわせている」──と頭に置いておけば、なんとかついていける。

たとえるならば、川端の『踊子』は、筒井康隆氏の『時をかける少女』です。筒井氏の作品の中で、こんなにソフトな文体は珍しいでしょう。

あの少女の活躍が気に入って、同じく筒井作品の『残像に口紅を』あたりに手を出すと、ビックリするはずです。同じ作者が書いたとは思えない。これほど違う世界生み出せる作家は、彼以外にはいません。

上で書いたように、分からない部分は、分からないままに読んでも面白いものです。いくつになっても分からないことがあるなんて、ステキじゃないですか。想像力の出番です。

またたとえるならば、『ロード・オブ・ザ・リング』を鑑賞する前に、原作の『指輪物語』を通読してホビット族の生態から熟知するところから始める──人は(ほぼ)いないでしょう。それと同じです。

余談

いつものように、タイトルはゲーテから借りました。

自分自身の道を迷って歩いている子供や青年の方が、他人の道を間違いなく歩いている人々よりも好ましく思う。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの名言 - みんなの名言集

この言葉を知っている人は、踊子の「正体」に気がついたかもしれません。

そう言えば昔、ダウンタウンの松っちゃんが「ガキの使いやあらへんで!!」の中で、「踊る子どもが踊子です」と力説していました。踊子の中には「オトナもおるやろ」という浜ちゃんのツッコミには、「それはダンサーです」とのこと。

──あ、ネタバレか(わざとらしい)。

意外にも、ゲーテの言葉と『伊豆の踊子』とは親和性が強くて、引用する時に迷いました。たとえば、下の言葉です。

人が旅するのは到着するためではなく、旅行するためである。

ゲーテ - 人が旅するのは到着するためではなく、旅行... - 名言のウェブ石碑

『踊子』の主人公は、息苦しい憂鬱に堪えきれないで伊豆の旅に出て来ているから、上の言葉がそのまま当てはまります。

ところが、踊子たち一行は、生活のため──生きるために旅をしている。「旅行」という言葉のニュアンスとは、ちょっと異なります。なんだか皮肉みたいに聞こえそうなので、今回のタイトルに決めました。

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