『四季 春』
真賀田 四季(まがた しき)の 5 歳から 13 歳までを描いた作品。
こう書くと、周りの大人がどうやって四季を育てたか、という話と思うかもしれません。しかし実際は、四季がいかに幼い頃から(生まれた瞬間から)特別だったかを思い知らされる一作でした。
放射能に汚染されたクモに噛まれるとか、ネズミと一緒に脳手術を受けたのではなく、四季は文字通り生まれたときから天才だったのです。
四季の間近にいる「僕」の一人称で語られるのですが、それは誰か。森作品を未読の人も、「S&M シリーズ」「V シリーズ」を読破した人も、だまされること請け合い。
天才の描き方
ノン・フィクションには、「天才」とか「IQ ○百」とかいう人物がよく出てきます。中には「こ、この程度を天才と呼べる、作者がある意味天才、というか天然?」という人も……。
天才キャラの描き方は、「凄いエピソード」をでっち上げて、周りのキャラに「す、凄い!」「天才だ!」と言わせるのがほとんど。
森作品にも、「天才」と呼ばれる人物が何人も出てきます。ちゃんと、彼らの思考をトレースして、天才性を裏付けているのが凄い。
四季はすべての人間の中でもずば抜けているので、彼女の思考をどうやって描くのか、疑問でした。本書では、彼女の思考を「もっとも身近な人物」がなぞる、という形式になっています。四季の一人称は出てこないので、なるほど、四季の思考は文字情報にできないのだな、と理解しました。
しかし、じつは『四季 夏』では四季の一人称の描写が何度も出てくるのでした。神に最も近い人間の内側を書くことができるける、作者に畏れを抱きました……。天才を描けるのは天才だけ、ですね。
一生、天才
作者の森 博嗣さんは、過去の自著でこのように語っています。
天才というのは、ずっと天才であり続けることはなくて、たとえば、ニュートンは何歳から何歳の間に天才だった、とかいうふうに使うのが本当だと僕は考えます。
『森博嗣のミステリィ工作室』 p.152
ならば、生まれてから死ぬまで、ずっと天才という人物がいたら? という発想で作られたのが四季なのでは、と想像しました。
天才と天才の差
四季の周りには、常人から逸脱した才能の持ち主が集まってきます。ある方面で才能を発揮している男に、四季が尋ねます。
「それにしても、貴方のような頭脳の持ち主が、どうしてまた、私なんかにおべっかを言うのですか?」四季は首を傾げた。
「とんでもない。お言葉ですが、私のような頭脳の者だからこそ、貴女の尊さが分かるのです。いえ、垣間見える程度のことですが」
『四季 春』 p.148
この何げないやり取りが印象的でした。かつて、四季がいかに天才か、と犀川が絶賛している場面がありましたが、その時はピンと来ませんでした。いま思うと、犀川の優れた頭脳があってこそ、四季との差を痛感できたのでしょう。
「凡人と天才の差よりも、天才と天才の差の方が大きい」という話をよく聞きますが、その辺りは『海馬―脳は疲れない』にものすごくわかりやすい説明がありました。この本からは、得られる物が多いです。あまりにも多いので、なかなか書評がまとまりませんが、こちらもどうぞ。