『ηなのに夢のよう』 森博嗣・著
《G シリーズ》の第 6 弾は、盛りだくさんの内容です! 過去シリーズのファンは、必読の 1 冊となっていました。
もう、ビックリするくらいに、ゲストが何人も出てきます。とくに、《V シリーズ》からの出演者が多いですね。いや、いまのところはゲスト扱いですが、もしかすると──今後の中心人物になりそうな気配もしました。
ミステリィ小説として読むと、事件の解決編が、前代未聞と言ってもいいくらいの終わり方です。まぁ、「森作品にありがちなこと」という感じですけれど……。
読み終わってみると、詰め込みすぎではないかと思うくらいの、大ボリュームです。しかし、本の厚みは薄い。余分なところが削ぎ落とされているのでしょう。
それでも、こういうシャレた会話がサラッと出てくる。
「ちょっと、月を見て、悲しくなってしまったの」
「今日は、月は出ていないだろう」
「そのようですね」(……)
「ああ、じゃあね、出しておくよ」
「え、何をです?」
「月を」
『ηなのに夢のよう』 p.168-169
2010-08-07T22:19:46+09:00 追記
ものすごく下らなくて、なおかつ下品なことを思いついてしまいました。とっさに月のことを西之園が話したのは、体調のことも影響していたのでは──という想像です。ふざけた文体の日記でどうぞ。
事件について
死んだ者には、死ぬ理由はなかった。
生まれる時だって、生まれた者には理由がない。生まれる動機はない。
『ηなのに夢のよう』 p.248
ミステリィではあり得ないような結末でしたね。
『τになるまで待って』も最後は放りっぱなしでしたが、れっきとした殺人事件でした(こういう時に「立派な──」と書くのは、間違いというか不謹慎)。
ところが『η』は──事件、なのかなぁ……。
このシリーズは、「殺人事件を扱ったミステリィ小説」──ではないことが、だんだんと明らかになってきました。
なんだろう、一連の事件の核にあるモノは?
真賀田四季(まがた しき)博士か、あるいは彼女の周辺にいる人物がカギを握っていることは、間違いないでしょう。ただ、そのカギが何か、何をしたいのかが──まだ不透明です。
赤柳初朗とは誰だ !?
「君、だいぶ、ずけずけものを言うようになったね、ぜんぜん、明るいし。どうしたの? 演技?」
「演技です」赤柳は即答した。
『ηなのに夢のよう』 p.212
本作でも、それとなく赤柳の正体を示すような場面がありましたね。まだまだ、彼の本質はつかめませんが……。
赤柳の古い友人である、椙田泰男(すぎた やすお)という人物が登場します。椙田と赤柳の会話を聞いていると、アパート・阿漕荘の周辺にいた人物は、赤柳の候補からほとんど外れるんですよね。
明るく振る舞っているだけである──と分かった以上は、小鳥遊練無(たかなし ねりな)や香具山紫子(かぐやま むらさきこ)が赤柳という可能性は、完全にゼロでしょう。
これまでの記述だと、森川素直(もりかわ もとなお)が一番近そうです。でも、赤柳のことを紅子が覚えておられないでしょう
、と思っていることが気になる。紅子と森川は、かなり親密に話していましたからね。
《V》と《G》との間に流れた年月のことを考えると、それほど違和感はないのですが……。
これまでは赤柳が林だったら面白い──と考えていたのですが、紅子との関係を思えば、それもあり得ない。
やはり自分は、『λ』の感想から引き続き、『恋恋蓮歩の演習』に登場した大笛梨枝(おおふえ りえ)説をプッシュします。女性であるというハンディキャップも、彼女なら乗り越えられるはず(?)。
過去の事件
拳銃を向け、指は引き金にかかっている。
「撃てません」西之園は首をふった。「先生はできますか?」
「できる」犀川は頷いた。(……)
「僕は復讐するだろう」
『ηなのに夢のよう』 p.93
かなり過去の出来事を振り返って、犀川と西之園が話し合う場面があります。このシーンは、『η』の中で最大の緊張感を味わいました。会話の内容が、じつにキワドイ……。
犀川の口から、復讐などという言葉が発せられるなんて、想像もできませんでした。このあたりは、確実に彼の母親から血を引いている──と感じますね。彼の母親も、彼の父親と彼とのことで、恐ろしい発言をしていました。
読む順番について
「でも、だとしたら、私はずっと、夢を見ていたのでしょうか? この十年間、すべて夢だったと?」
「その表現も、そんなに外れていない」
『ηなのに夢のよう』 p.87
なぜか、マンガ・『バクマン。』の感想でも書きましたが──、森博嗣作品は、出版された順に読むほうが面白いと思います。
バクマン。 #95-4 「毎晩と合体」 『NANDE!?』とコラボ !? : 亜細亜ノ蛾
《犀川 & 萌絵シリーズ》から《紅子シリーズ》・《四季 4 章作》と読み進んでから《G シリーズ》に来たほうが、絶対にイイ!
たとえば、《G》から森作品を知った読者が『η』を読むと、「どうして、事件と関係のない人物がこんなに出てくるんだ?」と疑問に持つはず。萌絵が背負ってきた 10 年間の重み──なんてのも共感できないし。
『レタス・フライ』でも、《V》の後日談が語られています。あれも、《V》を先に読まないと、ナンノコッチャ分かりません。「この男性の女性関係がわざわざ語られているのは、なぜ?」と思ってしまう。
《G》を読んだあとで《V》や《四季》を読むと、「ああ、こういうことか」という理解は得られます。しかし、《V》→《四季》→《G》と進んだ時の衝撃は味わえない。
そして、それは二度と体験できないのです!
2010-08-07T22:27:32+09:00 追記
なんということだ! とても印象深い、最後の場面について書き忘れていました!! 書き加えておきます。
別れと感謝
何度口にしても足りないと感じる言葉だった。
「ありがとう」
『ηなのに夢のよう』 p.269
「エピローグ」には衝撃を受けましたね! 森作品を長年読んでいる読者には、ちょっと冷静に読めないはず。
長い間、萌絵と読者の近くにいた、あるキャラクタとの悲しい別れが描かれています。何人も死ぬ小説を読んできたのに「そうか、この世に生を受けた者は、いつかはいなくなるのだな……」と改めて実感しました。
「作者は、どのような心境でこの場面を書いたのか」という、作者の森博嗣さんが嫌いそうな(というか無意味だと思っている)ことを、ついつい考えてしまいました。
この記事の一番上で、だらしなく寝ている彼も、もうこの世にはいません(なくなる直前の写真ではないですよ)。彼のことを日記に書いた時にも、「ありがとう」と自然に出てきました。本当に、感謝の言葉しか思い浮かびません。
ただ、この作者のことだから、「登場人物を借りて、自分の心情を語ることはない」と言われそうですね。この場面も、「ああ、森博嗣さんは、こういう気持ちだったのか……」と読者が想像するだろう──といった読者サービスだと思います。でも……。
ひとつの別れと、新たな旅立ちのあと、このシリーズは──萌絵は、どこへ行くのでしょうか?