『魔法少女まどか☆マギカ』 (PUELLA MAGI MADOKA MAGICA)
美樹さやかは、ソウルジェムの正体を知った上で、それを無造作に放り投げる──。とてもリアルな描写です。普通であれば もっと大事に扱うべき物であるだけに、自暴自虐になっている彼女の やり切れない気持ちがよく出ている。
こういう何気ない場面が自分は好きです。
ハデにぬるぬる動く場面のすごさは、誰でも見ればすぐに分かる(「最近のアニメはすごいね」と)。作画監督が誰か──といった情報も自分には興味がない。
もっと、細部と中身を観て欲しいですね。
第 7 話 「本当の気持ちと向き合えますか?」
キュゥべえは、そろそろ本性をむき出しにし始めました。本当の目当てである鹿目まどか以外には、とくに容赦がありません。ソウルジェムを通して さやかに痛みを教える時は、何かのデモンストレーションみたい。説明不足な点も、聞かれなかったからさ
──とサラリと言う。
それでも、自分には彼も正しいと思えました。
この作品の悲劇は、誰も間違っていないから起こる。
たとえば、キュゥべえが語った下の言葉は皮肉に聞こえるけれど、事実を述べているだけです。
戦いの運命を受け入れてまで、君には叶えたい望みがあったんだろう?
それは間違いなく実現したじゃないか。
第三者である視聴者から見ると、「キュゥべえはひどい! 悪だ!」と非難すれば済む(非難と批評とヒガミが視聴者の仕事)。
しかし──、「契約したら──となるけれど、いいかい?」とキュゥべえが説明を先にしていたら、さやかは魔法少女にならなったでしょうか? 本当に?
自分は、悩んで悩んで悩んだ末に、さやかは魔法少女になったと思う。すべては、上条恭介のために──。
キュゥべえは自分のやっていることをひどいとさえ思っていない
。なぜなら、人間の価値観が通用しない生きものだから
。──この暁美ほむらの言葉を聞くと、彼は非情な生物で、嫌悪の対象にしかなりませんよね?
ところが、あとに続く言葉は、キュゥべえのことを弁解しているようにも聞こえるのです。ほむらの公平さが現われている。
美樹さやかが一生を費やして介護しても、あの少年が再び演奏できるようになる日は来なかった。
奇跡はね、本当なら人の命でさえ あがなえるモノじゃないのよ。それを売って歩いているのがアイツ。
──というシリアスな場面ですが、まどかが見せる全然釣り合ってないよ!
のポーズが面白くて、つい笑ってしまう。魔法少女の基本である「お尻突き出しポーズ」をすでに会得しているとは、やはり天才か……!
さやかは、もっと、杏子と話をするべきでしたね。
魔法少女のことは、同じ立場にいる者しか分からない。そして、さやかのことを心配している魔法少女は、杏子しかいません。
いまの体になったことを、後悔するほどのことでもない
と佐倉杏子は言う。さやかにとっては深刻な事態を、軽く流すような発言です。これは、さやかの心をすこしだけ楽にしたことでしょう。
過酷な運命を受け入れられるほど長い間、杏子は戦い続けている。いったい、何歳から魔女を刈り続けているのか──。
志筑仁美は、正々堂々と自分の気持ちを さやかに伝えています。すがすがしい青春の 1 ページですね。時期が悪すぎるけれど……(3.11 以降のいろんな物事みたいに)。
『まど☆マギ』が悲しい物語として心に響くのは、登場人物のほとんどが間違っていないし、優しい人たちばかりだからです。仁美が抜け駆けするような子だったら(NTR されたら)、さやか(と視聴者)は単純に怒ることができた。
仁美を救ったのは さやかなのに、そのことは話せない。だから、感謝もされません。その上、恋のライバルにもなってしまった──。仁美のことで後悔しそうになった彼女は、誰にも責められない。
魔女戦では、初めて魔法少女の流血を見ました。「オシャレな魔法少女がファンタジックに戦うアニメ」などという幻想を見せる必要が、制作者サイドに なくなったからでしょう。
この魔女の設定は、なんだか さやかを思わせる──。
魔女図鑑 「影の魔女」 | SPECIAL|魔法少女まどか☆マギカ
かわいらしく戦っていたのは巴マミだけでしたが、その彼女でさえ、「よくケガをする」と まどかに話している。その時は、まだ「ちょっとハードな部活」程度の認識だった。
あのころには、もう戻れない──。
第 8 話 「あたしって、ほんとバカ」
魔法でケガを治療する さやかはマジカルかわいい! ──とは、もう見えませんよね……。
何でもできるクセに、何もしないアンタの代わりに、私がこんな目にあってるの
と まどかに向かって言う さやかは、完全に自分を見失っていますね。彼女が魔法少女になったのは、まどかの代わりではないのに──。
ところが、まどかが先に契約していたら何もかも救われていたのでは──と惑わす魔術がシナリオに仕掛けられている。
雨の中を走り去る さやかには、自分の暴言を悔やむくらいに、まだ優しさが残っていました。ひどいことを言われて傷ついたはずの まどかも、さやかを追いかけなきゃダメだったのに
──と後悔している。
この時点では、取り返しがつく状態だったかもしれません。だからこそ──、優しい 2 人のことが余計に悲しい。
噴水の近くにあるベンチで、まどかと話すキュゥべえの交渉術がすごすぎる! 押しすぎず引きすぎず、絶妙の距離感を保っています。
下のページでは、第 5 話までに披露された「キュゥべえ先生」の営業テクニックがまとめられている。また、別の作者による同人誌まで出ています。
第 8 話に出てくるキュゥべえの口車を取り上げているページや本は、残念なことに見つかりませんでした。彼の真骨頂は、この回で完成の域に達するのに……。「お前がまとめろ」と言われそうだけれど、できれば営業職の人に解説して欲しかった。
キュゥべえが言うことはすべて真実で説明不足なだけ──という説と、ウソも混じっている説があります。前者のほうが、シナリオの難易度も完成度も高くなるので、そうであって欲しい。実際は、どうなのだろう……。
まどかが契約すれば、本当に さやかの体を「人間に」戻せるのか? 今回のキュゥべえの話で、一番きわどい部分です。よく聞くと、彼の話にはきっと
という言葉が含まれている。「彼もよく分からない」が正解でしょうね。それならば、ウソではない。
この願いは、上条恭介の手を治したいと願った さやかにちょうど重なります。そのような希望を目の前に出されたら、誰でも飛びつくと思う。ずっと続いていく(はずの)人生について、うまく実感できない未成熟な彼女たちの立場なら、なおさらのことです。
さて、衝撃のキュゥべえが●●な場面ですが──。
何よりも恐ろしいのは、まどかがそれほど驚いていないところでした。すぐ近くで亡きがらが転がっているのに、やけに反応が鈍い。初めて見た時は、演出のミスなのでは──と思うくらいでした。
この時の まどかは、あまりにも突然のできごとで、頭が回っていないのかもしれませんね。または、ほむらの迫力に押されている。
鬼気迫る彼女の叫び声には、初めて ほむらの本心を聞いた気がしました。何もかもあの子のためよ
──と さやかにも語っていたけれど、なぜそこまで必死なのかが、この時点では分からない。まどかと同様に戸惑うばかりです。
おわりに
じつは、『まど☆マギ』を初めて観たのは、第 7 話からでした。ニコニコ動画での配信を第 8・9 話と観ていくうちに、分からないことだらけながらも面白く感じて、第 10 話で完全に のめり込む。
『エヴァ』も途中から──どころか、『劇場版 新世紀エヴァンゲリオン DEATH』を劇場で観てからハマり、テレビ放送の録画を友人に借りて、『Air / まごころを君に』を 7 回見た、という経緯があります。
そのため、両者には似たような思い入れを持っている。
「『エヴァ』以前・以後」という言葉が作られるくらいに、当時は革命的だった名作ですら、「第 1 話で主人公がロボットに乗る」という「ロボットアニメ」の文脈に沿っていました(「エヴァはロボットじゃない」は また別の話)。
そして、『エヴァ』の主人公たちは、「使徒」と呼ばれる敵と戦う。ようするに、「オトナたちの言いなり」になって、「わけの分からない対象 = オトナの社会」に立ち向かうことで、子どもたちが成長する(または成長できない)話だった──と思う。
では、『まど☆マギ』は どうなのか……?
この作品に登場するオトナたちは、少女を利用するようなことはしません。その役目は、キュゥべえが一手に引き受けている。
そして、彼女たちが戦う「魔女」とは──。