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本を読む意味・新しい考えに触れる・自由な思考

週末は軽く

週末だし、軽いことを書こう。

えーと羽毛。発泡スチロール。紙。パウダー。しお味。ふんわり。ほわほわ。まぬーふ。ひほっほう。(© 雑君保プ)──違うなー。

もっと感覚的なことを書こう。えーと「あなたのオーラの色は赤──」。スピリッちゃうのもどうかなー。

そうじゃなくて──。

3 つの選択肢

何か選択する状況があって、大きく分けて ABC の三つが選べるとする。

A は多くの人が選ぶ、一般的な答え。天の邪鬼な自分は B を選ぶ。C は、まぁ、マイナで面白くもない選択肢。

たまたま読んだ本で、自分と同じ B を選ぶ、という著者や作中の登場人物に出会うと、凄くうれしくなって、以降はその著者ファンになる。というのが二十歳過ぎからのパターンだった。

自分が二十歳の頃、つまり今から十年前というと、本を出すというのは今よりも大変なことだったと思う。要するに、「自分の本を出している人」というのは、「凄い人」なわけだ。そんな凄い人が、自分と同じような考えを持っている──そう考えると、自分まで凄くなった気がして、気分がよかった。自分と同じ B を選択する著者というのは、つまりは自分を気持ちよくしてくれる、便利な存在といえる。

4 つ目の選択肢

さて、そんな気持ちよさは長く続かなかった。その後、もっと自分にとって有益になる著者が現れたのだ。

すなわち、多くの人や天の邪鬼な自分も考え出せなかった、D を思いつく人だ。自分だったらこういうときは B を選ぶ、というときに軽やかに D という選択肢を出せる人の考えに触れるのは、何よりも得難い経験だ。本を読む意味、というのはこれ以外にないのでは。

本を読んでいて、気になったところには付箋紙を貼る。昔は B の部分ばかりに貼っていたが、最近は D にしか貼らない。A や B ばかりの本は、詰まるところ読む時間を費やすほどの本でもない──というのは言い過ぎか。

洗脳

さて、D という考えに長く触れると、次第に D が「自分が選ぶ選択肢」になってくる。

自分にとって 「選択肢 D を考えられる人」というのは、たとえば森博嗣さん。彼の著作物やブログを長らく読んでいると、「森博嗣さんだったらこう考える」というのが何となく判ってくる。すると、いつの間にかそれが「自分の考え」にすり替わってきたり。こういうのを日本語では「洗脳」というはずなのだが、「宗教」と同じく日本ではあまりいいイメージで使われないので、いやはや。

自由な思考

──というような適当なことを書くと「選択肢が ABC、そして D という 4 つしかない、と思考を限定することが云々」とか突っ込まれそう。

「(……)私が望む意思は、もっと強く自由なもの。それは、自分自身の中の無限。思考の無限だ(……)」

「自由がそんなに大切ですか?」

「そうだ。何故なら、自由以外に、思考の目的はない。人間が思考によって獲得する価値のある物は、それ以外にないからだ」

(『笑わない数学者』 p.218)

そうか、「選択肢が x 個ある」と考えた時点で、「選択肢が x 個しかない」と思考が限定されているのか。もっと、自由に考えるべきだ──。と、何となく判った気になった。──ちっとも軽い話じゃなかったような。

asiamoth: