『新釈 走れメロス』 森見登美彦 – 男の友情とは「ちょっと手加減」

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『新釈 走れメロス 他四篇』

20080405 哲学の道・鴨川の桜 201 (by merec0) (by merec0)

この本は、大切な友だちから借りて読みました(そればっかり)。

最初は「新訳(しんやく)」かと思って、なんだかお堅いイメージがあったのですが、よく見ると「新釈(しんしゃく)」となっている。「新しい解釈」のことで、ようするに「パロディ物」ですね。「生まれ変わった釈由美子」──のことではありません(書いて後悔した)。

本の題名にもなっている『走れメロス』の新釈は、パロディらしく思いっきり笑える話になっています。自分が過去に読んだ 2 作品と同じで、オモシロオカシイ大笑いできる内容になっている。

ところがほかの短編は、シンミリとしたセツナイ話に仕上がっているんですよね。そういえば、上に名前を挙げた作品も、芯の部分は切なさが流れています。それをオモチロイ要素でコーティングしてある、という印象でした。

全 5 篇の中で自分が一番好きな話は、『桜の森の満開の下』です。笑える部分を徹底的に削ぎ落とし、正体の知れない不安が全編を包み込んでいる。そして、最後のなんとも切ないこと……。

森見さんが書く小説は、ほかの作品とリンクしているところが面白いです。『走れメロス』の 5 篇もそれぞれ同じ人物が出てくるし、ほかの本ともつながっている。ファンサービスというよりも、「自分の子ども」たちに対する作者の愛情を感じました。

山月記

「もんどりを打って転ぶという言葉があるが、もんどりとは何か分かるか」

『新釈 走れメロス 他四篇』 p.23

斎藤秀太郎(さいとう しゅうたろう)というスサマジイ男を描いた短編。このマージャンが強い物書きは、この本のほかの話にも何度か登場します。それほど重要な人物なのか──というと、ちょっとアヤシイ感じ。

この話は、読み終えたあとの後味が新鮮でした。

短編小説というとオチが重要、と思われているフシがあって、作者も読者も「どうやってこの話を落とすのか」ばかりを考えている。落語や漫才を聴くような心構えで短編を読むんですね。

『山月記』はとくにオチもなく、「あれはなんだったのか──」と終わる。

短編に限らず小説──創作物に対して、「作られた意味」を求める人も多いです。学校教育のタマモノだと思いますが、「すべての物語には教訓がある(べきだ)」と信じて疑わない。

おそらく作者は、この短編を「スゴい男がいた……!」ということだけを書きたかった、と思う。それでも、教訓めいた「この作品の意味」を引き出そうとするならば、「物を書く、ということの恐ろしさ」でしょうか。自分には、斉藤ほどのめり込んで文章を書けません。

斎藤秀太郎は、どこへ行ったのだろうか。いつか彼の小説を読む人は現われるのでしょうかね。

藪の中

彼女と別れた時、たしかに俺は辛かったはずだが、その時はそれが思い出せないことがむしろ情けなく思えた。

『新釈 走れメロス 他四篇』 p.61

学生同士の三角関係と言えば、ラブコメ物では鉄板の設定です。

しかし、大学が舞台で三角関係が出てくる『藪の中』は、甘ったるいコメディではありません。かといって、ドロドロとしたミニクイ争いが描かれている──わけでもないのが面白いところ。

大学の映画サークルが文化祭で発表する映画を撮る。監督と主演の男女・たった 3 人で「屋上」という映画を作り上げる──という単純な話ですが、そのキャスティングがスゴい。主演の男女は、監督のカノジョとカノジョの元カレなんですよ。

監督の鵜山(うやま)と主演女優の長谷川(はせがわ)は、ある種の天才です。映画を撮る時だけ・演じる時だけ光り輝く。それに対して元カレの渡邊(わたなべ)は、すこしヒクツなところがある。そうか、だからフラレたのか──という、これまたそうでもない。恋愛とは、ムズカシイものですね。

この 3 人でクレイジィな映画を撮っていくわけですが、誰が見ても一触即発。ウマくいくはずがない。では、本当にそうなのか──という部分の描き方が絶妙です。

恋愛とは簡単なもので(えっ?)、ようするに相手に深入りしすぎなければ、長持ちする。この 3 人は、だからいい関係が続いているのですね。鵜山のように、自分の恋愛観を強固に守り通すことが時には必要な人も多いのでは?(時には、で十分だけど)

走れメロス

「ただ同じものを目指していればそれでいい。なぜならば、だからこそ、我々は唯一無二の友なのだ!」

『新釈 走れメロス 他四篇』 p.125

誰もが知っているであろう太宰治の『走れメロス』を、ダイタンに変えてきました。でも、男同士の友情を描いた点では同じ──なのかな……? たしかに、メロス役が走りまくっているところは変わらない。

おそらく、『夜は短し歩けよ乙女』と同じ舞台・年の文化祭でのデキゴトです。「詭弁論部」も「象の尻」も出てくるし、林檎飴が売られて達磨が転がっている。ファンにはタマラナイ演出ですね。

ただ、残念ながら、「黒髪の乙女」は出てこないようです。たぶん、マンガ・アニメ化されたら背景には描かれているはず。

原作のほうの『メロス』は、最初と最後以外は覚えていない、という人が多い(asiamoth 脳内調査による)。そのためか、森見版は、とにかく始めと終わりだけなんとなく似せて、あとは作者が思いっきり楽しんで森見ワールドを描いた、という感じです。

そのため、「森見作品は好きだけど、昔の純文学はチョット……」という人は、まずは『走れメロス』から読むといいですね。ページも開きやすいところ──ちょうど真ん中あたりです(そこまで計算したのかも)。

桜の森の満開の下

女の言葉を一つ飲み込むたびに、それは男の腹の中で一つの石になりました。

『新釈 走れメロス 他四篇』 p.165

ミステリアスな女性と主人公の男との恋愛を描いた短編です。

──上の行で、「悲しい恋愛を描いた」と書いて、ふと思い直して消しました。この恋愛が悲しかったかどうか、ちょっと判断が付かなかったのです。ひょっとしたら、二人とも幸せだったのかも……。

不思議な女性が出てきます。自分はミステリィ小説が大好きなので、完全にこの作品をミステリィとして読みました。または、ホラーとしても読めますね。

ミステリィもホラーも、「殺人(事件)が描かれる」ことは本質ではありません。謎を不思議がることや、恐怖を感じるところにその本質がある。──そうそう、書いていてあらためて思いましたが、ミステリィは「謎解き」がなくても成り立つんですよね。クイズ集ではないのです。

ということで、「あの女性はなんだったのか?」「どうして男はその生き方を選んだのか?」という、けっして解かれることがない謎にモヤモヤとする、ミステリィとして読める。また、ちょっとホラーっぽいですよね。

もちろん、恋愛小説として読むこともできます。いわゆる「ファム・ファタール」──運命の女性との出会いが書かれていて、話の広がり方はハリウッド映画的でもある。そういえば、5 篇の中では映画化に一番向いていそうです。

誰もが運命の女性(異性・同性)との出会いを待ち望んでいる──ということでもないのでしょうが、もし、出会ったらどうしよう? 主人公の男と同じような結果になったら? それが、最大のミステリィです。

自分なら──、破滅を選んだでしょう。

百物語

私はつねに、何事かに「参加していない」と感じていた。

『新釈 走れメロス 他四篇』 p.207

あとから知りましたが、この短編の語り部・「私」とは、作者のことらしいです。もちろん、森見さんの体験をそのまま書いたということではなく、「──という設定」とのこと。

森見さん本人と「私」がどこまで近いかは知りませんが、この主人公は自分とよく似ています。上で引用した参加していない感覚は、自分も感じています。いつでもどこか、「○○○○(本名)という男を演じている」のではないか、と……。

さて、この『百物語』は、完全なるミステリィ作品です(えー)。

鹿島(かしま)という男が主催した「百物語」に登場人物たちは参加する。かなりしっかりとしたイベントなのに、だれも主催者の鹿島を知らない。彼はどんな男で、何を企んでいるのか──?

誰が読んでも、「彼が鹿島だったに違いない」と結論を出すと思うのですが、ハッキリと正解は書かれていません。さらに言うと、「なぜ、彼だけが鹿島に気付いたのか」が分からない。途中で出てくる鹿島の仮説を読むと、もっと混乱する。

「百物語」とは、一人一人が怪談話をしていって、終わるたびにロウソクの炎を消していく集まりのことです。いまの世の中では、ほぼ成り立たないでしょうね。まず、誰も怪談を話せない。よっぽどのイナカに行かないと、夜でも明るくてサワガシイので、フンイキも出ません。

そう考えると、すこしサビシイ。

ただ、怪談も妖怪も、京極夏彦先生あたりが現代向けに書かれているので、まだしばらくは絶滅しないでしょう。

5 篇を読み終えて思うこと

人間は、迷惑な人とでも関わりを持ちたいし、メンドウな相手とでも恋愛をしたいし、バカな友情を貫くためにアホなことをするし、キケンと分かっている人とでも付き合いたいし、そして人と関わりたくない一面もある。

本当に、人間とはヤッカイなものです。だから、オモチロイ。

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