『残像に口紅を』
これは凄まじい一冊です。筒井康隆氏の、あまりにも有名な作品なのでご存じの方も多いと思いますが、
「現代人なら言語や記号にさえ感情移入できるようでなければならない」(p.16)
という主張の元に書かれた、「言語そのもの」に感情移入させる小説です。
全 66 章で、1 章ごとに世界から「音(おん)」が1音ずつ消えていく。それと同時に、その音が含まれた対象も存在が消える。小説の中で使える文字も段々と減っていくので、最後のほうは(いつものように)ドタバタとしていきます。
たとえば、第 1 章で「あ」が消えているので、自分(asiamoth)は真っ先に消えているわけです(笑) 「あんパン」や「蟻」、「アイスコーヒー」も当然消えているでしょう。
それでは「あなた」や「愛」はどうなるのか。その疑問は本書の 2 章で説明されているので、そちらをどうぞ。
主人公の佐治勝夫(さじかつお)氏は小説家で、明らかに筒井康隆氏本人です。彼の生い立ちを語る場面は必見ですよ。Wikipedia にも出てこない、生々しい父母の話です。
とにかく、このことを思いつき、一冊の小説として書き上げた、というだけで素晴らしい!
中公文庫版がオススメ
これから「よし、読んでみよう」というひとは、中公文庫版がオススメです。
巻末に本書の調査報告が載っていて、筒井氏が考える日本語の「音(おん)」がどのようなものか、どのような順番で音を消していったのか、推測しています。
そう、『幽遊白書』の海藤優の能力、「禁句(タブー)」の時のように、「あいうえお」順で言葉が使えなくなるのではなく、ランダムに音が消えていくのです。さすがに天才筒井康隆も、「あいうえお」順に消して一冊書くのは無理でしょうね。
幽☆遊☆白書の登場人物一覧: 5 魔界の穴編 – Wikipedia
この調査報告では、消えたはずの音を使っている例も載っています。
title="残像に口紅を - Wikipedia">中公文庫版(ISBN 4122022878)では、本文で用いられた言葉の出現頻度を研究したものが付録として掲載されており、既に消えてしまっているはずの言葉を誤って用いている例なども紹介されている。
この調査のおかげで、本書を読む際にあら探しをしなくていいのが助かります。それにしても、5 文字くらいしか違反していないというのが凄い。どれだけ神経を使って書いたのか、想像を絶しますね……(というか、校正の人、しっかりしてくださいよぅ)
消えた音の中で
第 30 章、つまり半数近くの音が失われた中、主人公は「創作の現状」というテーマの講演を行います。
なにしろ「す」が失われているので、「──です」と結ぶことができない。ここでの主人公の機転が面白いです。講演の内容も「短い創作の書き方」という興味深い内容です。
さらに第 33 章から、主人公の自伝が始まります。これは、筒井康隆氏の自伝でしょうね。もう、ビックリするような母親です。この作品中、もっとも衝撃的な話ですね。
『残像に口紅を』は、この主人公の自伝の部分だけでも読むに値する、と思います。あまりここを強調して語られることがないように思うのですが、なぜでしょうね?
心に残った部分
自分の娘三人と妻が消失した後の世界で、主人公はおぼろげな記憶の中で嘆きます。
それにしても淋しいことだ。女どもよ。家族よ。おれにゃお前さんがたの消失こそが最大の打撃でしたよ。
『残像に口紅を』 p.137
自伝をあらかた語った後の、この部分が、何とも味わい深いですね……。
厭わしいこと、忌まわしいことをだいたいは思い出したようだ。まだ、何か残っているかな。この際、まだ残っている澱のようなものは出してしまうのがからだによい。
楽しかったことがまったく思い浮かばないが、おかしなことだ。楽しかったことも思い出している間に一転して忌まわしいことになってしまう。おれは暗いのかな。誰だってそうなのかしらん。
『残像に口紅を』 p.258
決して「実験小説」の一語だけで語ることができない、至高の一作です。
