『バクマン。』 33 ページ 「ありとなし」 (週刊少年ジャンプ 2009 年 20 号)
初登場のマンガ家が名前と説明だけ載った。名前は平丸 一也(ひらまる かずや)という。
班長が平丸の説明をする場面を見て、鈴木みそ氏の『おとなのしくみ』を思い出した。とんでもない人のエピソードを淡々と語るところが、似ているのだ。ゲームやマンガの業界には、並外れた人はゴロゴロいる。
ほかの人へ感動を伝える際は、「どれだけスゴいか」を力説する必要は ないのだ。とくにブログなどへ文章で書くときには、オーバーな表現は逆効果である。顔文字や絵文字が並んだ文章は、見た瞬間に「引いて」しまう。
落語を見よ。落語家は誰もが無表情だ。自分のネタに自分で笑っている噺家(はなしか)は、いない。
表面は冷めていつつも、内面には情熱を燃やす。ひとへモノを伝えるときには、こうありたいものだ。
ところで、自分は落語には興味がないし、見たこともないのである。それでも、2 行上のような文章はシレッと書くほうが良い。「いや、○○家○○朗さんは、笑って話してますよ」と言われたら、舌を出して頭をかけばいいのだ。
そうやって適当なことを書くと、信頼を落として苦労するよ(リアルでもウェブでも)、という話である。
「ラッコ 11 号」
ロン毛の班長が語る平丸のエピソードは、驚異的な話だ。
サイコーはペンを握って二か月で集英社へマンガを持ち込み、その成長の早さに服部は驚いた。シュージンが書くネームの完成度の高さには、オトナも認める。また、新妻エイジも高校生でありながら週刊誌で連載する人気のマンガ家だ。
サイコー・シュージン・エイジの 3 人とも、「天才」と呼んでもいいだろう。
しかし、すでに結果を出しているエイジですら、努力をし続けたからこそ報われたのだ。
同じジャンプのマンガである『ライジングインパクト』に出てきたランスロット・ノーマンの言葉を思い出す。
「ボクは6歳の頃から毎日…
1000球ずつ一日も休まずパットの練習を続けてきた…」「天才とか才能とか…そんな安易な言葉でかたづけてほしくないな」
「ボクが天才かどうかわからないけど
誰にも負けない自信を持てる努力はしてきたつもりだよ」
これこそがジャンプマンガの王道、これこそが「天才」の言葉である。
──しかし、平丸一也は違う。ほとんど知識もなく、努力する時間もなく、月例賞で佳作を取っている。そして、連載会議でも編集長から「あり」と言われた。
ここに来て、「努力型の天才」と「天才型の天才」との対決、という図式ができあがる──。平丸とは、どのような人物なのだろうか。
「疑探偵 TRAP」
とうとう、サイコーとシュージンの作品の名前が連載会議で呼ばれる。ここでも相田のプレゼンテーションはウマい。
会議に出ている面々が一番気にするであろう、「亜城木夢叶は高校生」という事実をフォローしている。エイジと比べられることを意識している、とアピールして熱心さを前面に出す。
服部は相田の班で、本当によかった。そして、サイコーとシュージンが集英社へ電話をかけたときに、たまたま服部が取ってラッキィだ。もしも変なアフロの兄ちゃんが電話を受けていたら……。
すぐきつくなるだろ
今週号で一番おどろいたのが、下のセリフである。
途中からバトル物になるのが オチじゃないか?
──これは……許せない。「お前が言うなーーーっ!!!!」と叫びたくなる言葉だ。
いや、「お前」ショートカットの彼へ向けて言っているわけではない。「週刊少年ジャンプの連載会議に出席している人間」という意味だ。
人気の落ちてきたマンガをテコ入れする意味で、急にバトルマンガへ方向を展開する──と誰もが思うだろう。それも、編集部の中でも上の人間が指示を出している、と思っていたはずだ。
それが、この編集者の言い方だと、「実力のないマンガ家は、すぐにバトルマンガにしたがる」と取れる。それに、そもそも「バトル物になること・イコール・面白くないマンガ」と聞こえることが腹立たしい。
アナタたちジャンプの編集者が、そうやって何人のマンガ家を使い潰してきたか、忘れたのか知らないのか。
しかし、難しい問題だ。バトル物に変更することの善し悪し。諸悪の根元はマンガ家の力量不足か編集部か。この問題は、考えても仕方がないけれど……。
ジャンプ読みとしては、愛を持ってマンガと接してくれることを望むばかりである。