『屍鬼』 6~7 巻 小野不由美×藤崎竜 – 生きる苦しみ・不死の痛み

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『屍鬼』 – 原作: 小野不由美, 漫画: 藤崎竜

Objetivo / Lens
(ビデオのレンズよりも──冷酷な目)

尾崎敏夫(おざき としお)・室井静信(むろい せいしん)・結城夏野(ゆうき なつの)の本性が、だんだんと見えてきました。村の惨事に心を痛め、精神を病んだだけ──とは思えないほどに……。

これから 6・7 巻の感想を紹介するわけですが、なんと、半分は尾崎恭子(おざき きょうこ)のことです。そんなに好きだったのか──と自分でもビックリしました。

いつだって、手に入らないモノほど欲しくなる。

そして──、なくなったモノほど愛おしい。

尾崎恭子にお別れを

第 6 巻は、本当にさまざまなことが起こります──が、自分の中では、尾崎恭子の「入院」で頭がいっぱいです。ここに来るまでは、それほど好きな人物でもなかったのに……。

尾崎医院での場面は、視覚的に刺激的ですから、当然のように読者の多くが印象に残っていることでしょう。しかし、たんにスプラッタ要素を強めるだけシーンとして見るのは、もったいない。

多くの読者は、セリフとして語られたり、絵として描かれたことだけしか読みません。小説や詩で言うところの「行間を読む」にあたる、「コマ間を読む」ようにすると面白いのです。

──いちおう書いておくと、「行間を読む」の「行間」とは、本当に「行と行との間」ではありません。「その文には書かれていない部分を想像する」という意味です。「コマ間を読む」も同様にお考えください。

コマ間を読む読者が少ないから、某マンガのキャラクタたちは、自分の刀の能力をベラベラと敵に語るのです! そして、いちいち文句を言う読者に対して、わざわざ作者が弁明しなければならない……だと…… !?

参考: ブリーチ作者、久保帯人「気に食わなければ読むのをやめればいい。努力する人間の足を引っ張るな。」 : はちま起稿

それはさておき──。

恭子が入院する場面で、何が恐ろしいのかというと、恭子と敏夫との間に会話がないことです。尾崎敏夫が「手術」をする際に発する言葉は、真の意味では恭子に向けられていない。ただたんに自分に対しての確認と、ビデオのためです。

夫である敏夫が、妻・恭子を実験道具と見ている。

いや──、滅ぼすべき敵としてしか見ていない。

ここまでは、多くの人が気づくところでしょう。でも、もっと恐怖を感じることがあります。それは何かと言うと──、

尾崎恭子は、何も知らずに「手術」されている

ほかの「屍鬼」たちと同様に、恭子が血を吸われて死ぬまでは、自分の身に何が起こったのかは分からない。「起き上がって」からも、恭子は辰巳(たつみ)からの説明を受けていないのです。

恭子の視点から、この場面を振り返ってみましょう──。

──気がつくと、自分は手術室にいるようだ。近くには夫がいて、なぜだかカメラにしゃべり続けている。話しかけようとしたが、声が出ない。ワケも分からずに涙が出てくる。夫の目が、いつもと違うようだ。恐い、怖い。そして夫は、注射針を、マスクを、メスを──。

こんな感じで、ずっと恭子は状況が分からないままに、手術台に拘束されて、薬を注射され、「手術」されていったのです。もちろん、すべての痛みを正確に感じながら──。

さらに恐ろしいことに、この「手術」の過程で、恭子は自分の体が正常ではないことに気がついたはずです。なにしろ、自分の体にしていることを、優秀なお医者さまが解説してくれているのだから──。

もしかすると、敏夫が自分の体を改造した、と恭子は思ったのかもしれません。狂った夫のせいで死なない体にされて、「手術」されている──。恭子がそう思っても、ごく自然な場面でしょう。

あなたが恭子なら、耐えられますか?

この場面は、ここまで読み込んで、ようやく恐ろしさの本質が見えてくるのです。スプラッタな描写など、スパイスにすぎない。

ただ一つの救いは、恭子が本格的に「起き上がる」前に、敏夫が彼女にすまないと詫びていたことです。

敏夫からすれば、妻としての恭子には愛情はなかったけれども、とくに敵意はなかった。ただ、「屍鬼」は許さない。だから、平気で実験したのでしょう。

「起き上がり」の弱点が判明した──とは言えないような実験の結果だし、「太陽の光に弱い」というデータはすでに得られていました。結果論ですが、実験した意味は薄かったことが残念です。あとはただ、恭子が安らかに眠ってくれることを祈るばかりですね。

さようなら、恭子さん……。

夏の終わり・夏野の始まり

ストーリィ的に第 6・7 巻で重要なことは、結城夏野(ゆうき なつの)が死んで「屍鬼」になったことです。

敵と同じ力を身につけて戦う──。おお、これは少年・青年マンガの王道ですね! 『デビルマン』や『エヴァンゲリオン』などなど、いくらでも作品名が浮かびます。「週刊少年ジャンプ」のバトルマンガも、だいたいコレだし。

「徹ちゃん」こと武藤徹(むとう とおる)からすれば、夏野が「起き上がった」ために、以前のようにイチャイチャできなくなり、さみしいでしょうね。──え? そんな目で見ている読者はいない? うそーん。

その徹の目を通して、いくつかの事実が判明します。中でも、桐敷沙子(きりしき すなこ)が語った過去と、桐敷正志郎(きりしき せいしろう)の正体によって、大まかな物語の骨格が分かりました。

沙子は、わたしは 人を襲うことが 悪いことと 思っていないと言っていますが、初めからそうではなかったはず。多くの苦しいことや悲しいことも、記憶って 摩耗して いくから、忘れてしまった。

これからも、徹を通して(非・ダジャレ)、夏野に「屍鬼」の情報が流れてくるでしょう。結城夏野は、尾崎敏夫と組んで「屍鬼」たちを滅ぼそうとするはずです。

できれば──、バトルマンガにはなってほしくない。

ラスボスは誰だ?

急に桐敷千鶴(きりしき ちづる)の露出がハデになってきましたね(ゴクリ……)──じゃなくて、出番が増えましたね(わざとらしい)。

千鶴は、人類にとって倒すべき最後の敵──という感じの場面がアカラサマに多くなっている。沙子と違って、吸血と殺人を楽しんでいます。

でも、だからこそ、千鶴がラスボスではない気がする。

辰巳はアヤシイですね。桐敷家の使用人という顔をしていながら、レアな人狼(じんろう)である身をフル活用して遊んでいます。恭子の死を確認しに来なかったり、夏野を放置していたり、行動がテキトーなのか計算なのかが読めない。

また、昨日、さりげなく(?)『封神演義』の名を出しました。じつは、清水恵(しみず めぐみ)がフジリュー版『封神』の妲己に見えたからなのです。

『屍鬼』の話から考えると、立場的に千鶴のほうが妲己に近そうですよね。でも、ものすごくイキイキとして人を襲い、オジサンに対しても楽しそうに話して、平気で同級生を不幸にする──恵の姿が、妲己を思わせる。千鶴は、「食う」だけだし。

あとは、最初から「目がまっ黒」だって、室井静信もラスボス臭がプンプンする。彼はもしかして、「人狼」か、それ以上の存在なのかも。純粋な人間だとしても、尾崎の前に立ちはだかりそうですね。

ところが、ここで思わぬダークホースが登場です! 7 巻のサイドストーリィを読むと、前田元子(まえだ もとこ)がなかなかイイモン持ってるんですよね。ドス黒いタマシイを──。彼女が人間側か、「屍鬼」側か、どちらにつくかに注目しましょう。

吸血鬼のオキテ

吸血鬼モノはどうしても似てくるのでしょうが──、『屍鬼』を読んでいると、『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』を思い出します。

吸血鬼としての悲しさは、人の血を吸わなければ生きていけないことと、長い年月を生きるところにある。それは、あまりにも苦しい。そのせいか、快楽にふけって忘れようとする者も出てくる。

──そのあたりが、両作品で似ているのですね。

できれば『屍鬼』には、もっと違う道を進んで欲しい。

敏夫や静信・前田元子のように、狂気をはらんだ人間が何人もいるから、すでに別の方向が見えていますけどね。

げに恐ろしきは──人間なり。

ただ、「人狼」という設定はズルイ気がする。『インタビュー』では、ヴァンパイアは例外なく日光に弱かった。だから物語が成り立っていたのです。「人狼」の存在が、『屍鬼』の世界を壊さないか、すこしだけ心配ですね。

終わりに

オヤクソクとして、沙子語録を引用して終わりにします。彼女はこの気持ちを、何回思ったことだろうか──。

生きることは それだけで 苦しいこと

屍鬼 (7)