本の組版に執着する人たち
今回は、本の組版(文字のレイアウト)の話である。本のデザインといえば装丁(カバーなどの外側)に凝った話ばかりが取り上げられるが、中身のほうが大事だ。人間と同じで(説教臭いなぁ)。
帆掛さんの気になる話
このブログだけではなく、「はてなブックマーク」でも「帆掛さん・ラヴ」と言い続けてきた、私こと asiamoth だが──。
じつは、このたび帆掛さんと結婚することになりまs
──ではなくて。
じつは、帆掛さんに共感したことがほとんどない。オカルトもホラーも「たしなむ」程度で、クトゥルーはガキのころに読んだトラウマ(「かん字がむずかしくて読めない」)で、それ以降は触れていない。「BOOK ON」で大量に本を買うほど本が好きでもない。
まぁ、好きな対象と趣味が同じではないとイヤ(非モテ思考の始まり)だ、という訳ではないけれど……。少し、さみしい気もする。
そう思っていたら、ようやく帆掛さんに共感できる部分があった!
奇遇 – 2008-09-18 – coco’s bloblog – Horror & SF
何ともマニアックな本の組版の話を、帆掛さんと富士見さんがしている。「最後の行」も「句読点の並び」も、両方ともすごく分かる!
思わず 2 人の会話に「あるある www」と割り込んで、思いっきり不審な顔で帆掛様に軽蔑されたい……。末代まで祟られたい……(オレの代で終わりそうだけど)。
ref.: 栗山千明さんの 2ch スレ(千明様ネタ)が面白い : 亜細亜ノ蛾
京極夏彦と森博嗣
自分が知る範囲(猫の額くらい)で、文字組にこだわる作家と言えば、なんといっても京極夏彦さんだ。
title="森 博嗣さんのブログ、『MORI LOG ACADEMY』で『新しい諺』という記事を読んだ。自作のパロディことわざだが、それぞれの文字数がそろっているのが面白い。自分はこの手のネタが好きで、影響を受けた京極 夏彦さんの話題などを書いてみた。">ファンなら誰でも知っているとおり、彼の著作物は、『絡新婦の理(講談社ノベルス版・1996年11月5日・初版)』から ずっと、
全ての行が、次のページ・段に またがることが無い
というルールを通しています。
──初めて気付いたときは、驚きを通り越して、あきれました(笑)。以後、雑誌に載る場合でも、小説では上記のルールを徹底していますね。
森博嗣さんは、京極さんほど文字組に執着はなさそうだが、執筆途中・ゲラ校正について話をよく日記に書いている。
「本はコンテンツが大事」といった趣旨のことをよく書かれるが、ハードカヴァはほとんど買わなかったり、禁則処理について徹底していたり、けっこうコンテンツ以外にもこだわっている。いかにも彼らしい(「友達って大事か?」って言いながら、友だちは多いし大事にしているよね)。
彼の日記を読む限り、作家の負担を減らして気持ち良く作品を書いてもらおう──という思慮・配慮に欠けた編集者が多いようだ。
出版業界は、知れば知るほど「文字組も締め切りも気にしない、それでいて売り上げが伸びるのを祈る」というクレイジィ(英語なら大丈夫)な人たちばかり勤めている印象がある。──そう、いま何気なく書いたけど、本という芸術作品を作家と一緒に作っているのではなく、「勤めている」感じ。
ルーチンワークをこなしているだけで「第二のハリー・ポッター」を狙うなんて、下の彼と同じではないか、と思う。
──と、多少言いすぎてみたが、100% 正当な理由で上記に反論できる編集者が増えることを祈る(あ、自分も祈るだけか)。
まとめ
自分としては、本のレイアウトは読みやすければ良い。線を引きながら読むので、できれば行間が空いて、文字も大きめが好きだ。ちなみに、自分の目は男性にしては大きめで二重まぶただが、関連性は不明だ。
『人形式モナリザ』も「最後の一行に驚く」のだが、自分が読んだ「講談社ノベルス」版はあっさりした普通のレイアウトだった。しかし、それが逆に怖かった。「その一言」を発した人間の心理状態を考えると──。
『十角館の殺人』のような作品は、ページ配分も十分に考えて作って欲しい。ページをめくった先の「あの一行」は、本当にビックリした。
『十角館の殺人 新装改訂版』 綾辻行人 – 一行で反転する世界 : 亜細亜ノ蛾
そういうわけで、装丁も組版も、もちろん中身の文章も「正解」はない。──が、「理想」を求めて、作家と編集者で素晴らしい本を作ってくれるように望む。