『バクマン。』 8 ページ 「アメとムチ」 (週刊少年ジャンプ 2008 年 45 号)
この作品の対象年齢は何歳くらいなんだろうか? 昨日も書いたが、改めて気になった。
バクマン。 NO.8「アメとムチ」 シュージンと(怖い)母親 : 亜細亜ノ蛾
サイコーたちと同じく、中学生くらいの読者を想定しているのか。あるいは、学生時代を懐かしむ世代に読んで欲しいのか──。答えは、「両方」だろう。
今回のラストは、中高生くらいの男女の「あるある」感を描いている。自分も、中学生のころはサイコーと同じことを感じたことがある。なぜそんなことが恥ずかしかったのか──いま考えると疑問だが、ほほが緩む思い出だ。
しかし、いまどきの中学生に「あの感じ」が伝わるのだろうか。サイコーや亜豆のような純真な中学生は、もういない──と思っているのは、自分がネットの情報に踊らされているだけだろうか。
下の記事のように大らか(?)な中学生の話を聞くと、どちらなのか迷う(──って、自分も三重県人だけど、こんな中学生時代はなかったぞ!)。
痛いニュース(ノ∀`):「恥ずかしがってるー」 女子生徒らが男の前でも抵抗なく着替え…日教組王国・三重の日常
今回の感想では、中学生らしい感情について生ぬるく語りつつ、サイコーとシュージンの持ち込みを担当した編集者・服部(はっとり)も見ていこう。
服部は「当たり」なのか?
サイコーとシュージンの持ち込んだ原稿を読むのは、服部という編集者だ。絶対、子どものころは「タコのはっちゃん」とあだ名が付いたはずだ。おちょぼ口の突き出た感じと長い腕とが、タコを想像させる。実在の人物をモデルにしているのでは──と思えるくらい、リアリティがある動作と表情だ。──『バクマン。』の担当者だったりして。
編集者としての服部の力量は、まだ分からない。初めてマンガを持ち込んだサイコーたちはもちろん、彼の心情を読める読者ですら、服部が信頼に足る人物かは不明だ。マンガの本質に迫ることを言っているようにも、あやふやな判断をしているようにも見える。言っていることがすべて、受け売りかもしれない。
計算するタイプよりも、いわゆる天才タイプのほうがヒットしやすい──。そう語る服部には、妙な迫力を感じた。売れる作品を計算しつくすシュージンには、さぞかしショックだったはず。ただ、そのあとの服部のフォローが見事だ。服部の「計算でヒットが出せる人は強いんだ 一作で終わらないし」
という言葉は、二人にとって心強かっただろう。彼らが目指しているのは「一発屋」ではないからだ。
作品の評価よりも、信用できる編集者かを見抜こうとするサイコーの目が鋭い。服部も、ただならぬモノをサイコーに感じている。そのせいか、それとも普段のクセか、服部の会話には変なタメがある。相手の気持ちを上げたり落としたりする。──そうか、これが「アメとムチ」か。
服部が「作品をヒットさせるのって結構 博打なんだ」
と語るのを聞いて、彼のことをサイコーは信用する。これは面白い。マンガの持ち込みに来る人の多くは、自分の将来を賭けている。それなのに左記のようなことを言われたら、普通の人なら幻滅しそうだ。川口たろうから博打(ばくち)の話を聞いていなければ、サイコーも服部を信用しなかっただろう。
二人の持ち込みは、上々と言える結果だった。しかし、そのあとの編集者たちの会話が不吉だ。サイコーとシュージンの才能を、服部は認めている。しかし、どうも服部はヒット作を出していないようだ。編集部内でも、かなり下の位置にいるように見える。だからといって、「編集者が足かせとなってデビューが遅れる主人公たち」なんて展開にはしないと思うが……。
サイコーとシュージンに付いた編集者が服部だったこと。──これは二人にとって、吉と出るか凶と出るか……。
お隣同士
個人的に、今回の一番の見どころはラストだ。珍しく中学生らしいサイコーの表情が、たいへん愉快だ。
サイコーたちのクラスで席替えがあった。机を密着させて男女を隣同士にする席順に、教室内では不満の声が次々に挙がる(PTA もうるさそうだ)。
ここで、「ウソつけお前ら! ──うらやましいぞ !!」と叫びたい自分がいる。若さは、それだけで貴重だ。昔は理解できなかったが、いまは痛いほどにそれがよく分かる。
この席替えに不満を漏らしている子たちは、自分の中のどこからそういった気持ちが出てくるのか、ハッキリとは分かっていないのだろう。5 年後には「あのころは良かった……」と思う者もいるに違いない。
そんな嬉し恥ずかしい席替えの結果、サイコーの隣の席は亜豆になった。しかし、マンガ家として成功するまでは会話ができない。──まさにこれは、「アメとムチ」。そう、今回のタイトルは、このサイコーの心境でもあるのだ。
そういえば、会話をしないことに決めたのは、亜豆だ。川口たろうと亜豆の母親とのことを知っていて、そう決めたのだろうか──いまさらながら、気になった。シュージンが絶叫していたように、遺伝や血だけで親と同じような行動をするものだろうか……。
そう考えていくと、親友のカヤに「男の子とは恥ずかしくて話せないの」
と言ったのは、サイコーとの関係を隠すためなのか、天然なのか、どちらか分からなくなってきた。
素で赤面している亜豆を見る限り、彼女は本当に恥ずかしがり屋なのだな、と思った。──そう思っておこう。せめて創作の世界だけでも、夢を見ておきたい。
リトマス紙
さて、いまから、日常会話でまったく普通に使われるような言葉を書く。「現役女子中学生」「隣の席」「制服」。──いやらしく聞こえた(見えた)人、アウト(インスパイア元: 『絶望先生』のリトマス試験紙ネタ)。
まとめ
そういえばジョルノって 15 歳の高校生だったよね──と唐突に思い出した。ギャングスターを目指す彼が、獄中のマフィアに面会したあと──ハイスクールの寮に帰ってくる、というギャップが最高だった。タクシーの運転手(と裏家業)で生計を立てているのも面白い。
サイコーとシュージンも、大人びた考え方をしている。たまに見せる子どもらしい一面が楽しい。変にひねくれることなく育って欲しいところだ。
ただ、素直に生きているだけでは知ることができないような、人間の影を描いた作品には、優れたものも多い。計算するタイプのシュージンは、どこまで自分の世界を広げられるのか。これからも見守っていこう。