『バクマン。』 22 ページ 「邪魔と若さ」 (週刊少年ジャンプ 2009 年 09 号)
「天才」や「神」という言葉が今ほど安くなった時代はない。「有り得ない」「半端ない」や「超」「鬼(関西弁)」などの価値も、ドンドンと値下がりしている。パネェことが世に あふれているのだ。
それなら、自分のレベルでも「イケメン」や「アルファブロガー」と呼ばれていいのでは、と思ってしまう。まぁ、実際にそう呼ばれたらムナしいだけだが……。
バトルマンガの世界では、話が長くなるにつれて強さのインフレ化が起こる。地方で少し強いくらいのキャラは、いつしか雑魚あつかいになる(学術用語でヤムチャ現象という・ウソ)。
それに比べると、現実世界にいる天才・神は、あまりにも ありふれている。八百万の神々がおわす国だから、だろうか(たぶん違う)。創作の世界にも天才は多い。ほとんどが「──どこが?」と言いたくなるような、説得力のないキャラクタばかりだ。
さて、『バクマン。』の新妻エイジは、作中で さまざまな人物から天才と呼ばれている。彼は、よくいる薄っぺらい天才キャラとは違うのだろうか。「22 ページ」の後半でその評価が分かれるだろう。
やっぱ遠いな
サイコーによると、吉祥寺から八王子までは、電車で 30 分かかるらしい。そういえば以前に、土地勘のない東京のことを書かれると距離感が分からない、と書いた。
バクマン。 #14-2 「御馳走と卒業」 シュージンの夢と見吉の涙 : 亜細亜ノ蛾
自分は三重県の四日市市に住んでいる。このあたりは JR よりも私鉄(近鉄電車)のほうが利用者が多い。駅を見ても、明らかに JR は寂れている。これは全国的には珍しいようである。たまに名古屋へ買い物に行くが、急行電車でおよそ 30-40 分ほど必要だ。吉祥寺と八王子は、それくらい離れているのか。
そしていまごろ気付いたが── Google マップで調べれば良いのだ(ネットジャンキィとは思えないニブさ)。
やはり、吉祥寺と八王子とは、四日市市と名古屋と同じくらいの距離がある。サイコーの自宅は、吉祥寺よりもさらに遠い。ようやく、サイコーと亜豆の家は どれくらいの遠さかが実感できた。
以上は、東京都に在住している人には当たり前の感覚だろう。地方に住む者には こういった「確認作業」が必要なのだ。
よろしくメカドック
サイコーとエイジの再会が実現した。まずは、サイコーのセリフに対してお約束のリンクを張っておく。
この場面で面白かったのが、サイコーはエイジのふざけた受け答えを対人用に キャラ作ってるのか?
と思っているところだ。たしかに、それくらいエイジの言動は わざとらしい。
それにしても、サイコーが出会ってから今まで、ずっとエイジは同じように振る舞っている。それなのに「キャラ」だと疑うのは、少し無理があるのではないか。普通に考えて「そんなん、しんどいやろ!」と突っ込みたくなる。
しかし、天才は普通の人よりも多くの面を持っているものだ。
天才と聞くと、自分はまず森博嗣さんを思い浮かべる。彼の著作には多くのユニークな天才が登場し、天才に関する発言に面白いものが多いからだ。
天才というのは、ずっと天才であり続けることはなくて、たとえば、ニュートンは何歳から何歳の間に天才だった、とかいうふうに使うのが本当だと僕は考えます。
『森博嗣のミステリィ工作室 (講談社文庫)』 p.152
上の言葉を借りると、森博嗣は真賀田四季を描いている間は天才だ、と言えるだろう。天才でいられる期間の有限性を説きながら、自分が創作した人物である四季には「生まれた瞬間(生まれる前)から天才」と設定している。
そして、ありきたりな「自称・天才」たちと四季が決定的に違うのは、その圧倒的な多面性である。詳しく言うとネタバレになるが、速く走れる人は、ゆっくりと走ることもできる
(『有限と微小のパン―THE PERFECT OUTSIDER (講談社文庫)』)を彼女ほど体現した人物は、ほかにいない。
新妻エイジも天才だが、多面性はないように見える。しかし、彼はその純粋さが良い。今週号の後半で、その混じりけのなさが見える──が、感想がそこまで行くのはまだまだ先だ……。