『トロン: レガシー』(Tron: Legacy)
どこか懐かしさを覚える最新 SF でした。
主人公のサム・フリン(ギャレット・ヘドランド)は、子どものころに父親が失踪して以降は、不良になってしまう。そしてバイクで暴走したり、ハッキングして会社に忍び込んだりする。
──それ何て『ターミネーター 2』?
『トロン: レガシー』のストーリィも言ってしまえば、『スターウォーズ』(旧 3 部作)なんですよね。「週刊少年ジャンプ」のマンガ大半も同じだけれど、「父と息子との関係」は物語にしやすいのだろうか?
ということで、本作品は細かいことを考えずに、ひたすら最新の映像を楽しむ映画です。サムがコンピュータの世界──「グリッド」に入り込んですぐに、なんの説明もなく「ゲーム」が始まるスピード感が楽しい。
ゲームに使われる「ライト・サイクル」(バイク)や「ディスク」(ID 用円盤)・逃走用の「ライト・ランナー」(車)は格好良かった! ライト──ナントカ言うと思われる飛行機(名称不明)での空中戦も素晴らしい。
個人的には、ライト・サイクルやディスクで戦うゲームの場面を、もっと延々と鑑賞していたかったです。映画の 8 割はゲームで良かった気がする。DVD/BD が出たら、リピート再生しよう。
後半に出てくるサムとトロンが戦う場面も、すこし消化不良でしたね。もっとハデにして、「今の時代だからこそ実現できる戦闘」を目にしたかった。
「ケヴィン・フリン」という重要な人物を、前作と同じジェフ・ブリッジスが演じているところも注目です。61 歳のジェフからは、28 年の歳月を感じさせる。前作のファンには、感慨深いところでしょう。
ところが、前作にも出てきた「クルー」という人物(プログラム)は、当時と同じような顔をしている。まるで 30 代のジェフ・ブリッジスそのものなのです!
この「同じ俳優の 30 代と 60 代の姿が共演していること」が、じつは『トロン: レガシー』の目玉だったりする。あまりにも自然な映像であるため、誰も気がつかないでしょうね。
これからは、女優のメイク・アップも CG で──となるかもしれません。
ディスクはきわどい
グリッドでは誰でも──プログラムでも人間(ユーザ)でもディスクを持っている。これは重要なアイテムで、ディスクをなくした場合は抹消される──という恐ろしい警告を受けます。
──それにもかかわらず、プログラムやサムたちは、ディスクを投げ合って戦っている。これはクレイジィな設定ですね! 不思議なことに壁に当たるとディスクは跳ね返るのだけれど、闘技場の壁はかんたんに壊れたりする。
たとえると、『エヴァンゲリオン』がエントリー・プラグ(コックピット)を刀みたいに振り回したり、『ウルトラマン』がカラー・タイマーで怪獣を殴りつけるようなものです。
「そもそもディスクも──というかプログラム自体も、『プログラム』なんだから無限にコピーができるんじゃないの?」──そういう本作品のきわどさを、ディスクは象徴している。
ワイルドなヒロイン
メイン・ヒロインのクオラ(オリヴィア・ワイルド)は、アクションもこなすし頭が良いし、猫を思わせる表情が魅力的です。
彼女の正体は、ストーリィの必然性を考えれば見え見えなのですが──、自分はボーっとしていたので、「お父ちゃんは現実世界を捨てて、こんなところで愛人を囲っていたのか……」と思いました。あるいはメイド・ロボットとか。
途中まで、サムも同じことを考えていたはず……。
ケヴィンにとってクオラは、息子のサムと同様に重要な人物です。そのわりには、彼女の扱いに疑問が出てきました。
たとえば、クオラが敵に捕まる場面がおかしい。敵からすればクオラは、「洗脳して兵士にするための、何万人の 1 人」でしかありません。いつ殺されるのか分からないのです。
それなのに、「大丈夫だ、問題ない」(※そんなセリフではない)とケヴィンは慌てません。
また、グリッド内での最後の場面も不思議でした。クオラの重要なモノを、クルーに取られてしまう。いくらでもニセモノが手に入るアイテムなのだから、わざわざクオラのモノじゃなくても──と思いました。
ダフト・パンクが大活躍(できていない)
重要な人物・ズースのカギを握る男──キャスター(マイケル・シーン)がいる「エンド・オブ・ライン・クラブ」へサムは向かいます。部活でもカニでもなく、古代文明でいうところの、ナイト・クラブですね。
このクラブで何よりも注目するべき点は、DJ がダフト・パンクというところです! いつものようにヘルメットをかぶった 2 人組が、グリッドの世界に溶け込んでいる。
ダフト・パンクと言えば、『Around The World』のプロモーション・ビデオが印象的です。「そう言えば、このビデオにも、トロンのプログラムみたいなロボットが出ていたな」と思って久しぶりに観たら、けっこうダサいデザインで苦笑しました。
クラブのオーナであるキャスターが、場を盛り上げるために、ノリの良いミュージックを DJ に注文する場面が出てきます(※セリフはまったく異なる)。
- ダフト・パンク:
- 「こんな音楽で大丈夫か?」
- キャスター:
- 「一番いいのを頼む」
DJ は、気の効いた音楽を流し始めるのですが──、
──数秒で場面が切り替わって静かになる。
ここはズコー! となりました。アメリカでは絶対に、ダフト・パンクのファンがスクリーンにポップコーンを投げつけていると思う。
CG と実写との融合
『ベンジャミン・バトン』でも、「ブラッド・ピットの老人姿」があまりにも自然すぎて、ものすごさに気がつきませんでした。自分が書いた感想にも、まったく触れていない。
ベンジャミン・バトン – 老いていて求めれば若くして豊かな人生 : 亜細亜ノ蛾
これからは、「いかにも CG」という驚きの映像を創り出しても、誰も見向きもしません。一瞬だけ、「わあ、すごいね(棒)」で終わってしまう。むしろ、あとから「あれが CG だったの!?」と叫びたくなるような、自然な CG が主流になるはずです。
- 【インタビュー】映画『トロン: レガシー』で使われた、最新CG技術とは? | クリエイティブ | マイコミジャーナル
- 『トロン・レガシー』知られざる舞台裏 | シネマ&ドラマ | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
上のインタビュー記事を読んで一番ビックリしたのは、ボディ・スーツ(※)の発光部分を本当に光らせていたこと。映画を観ている時には「自然に合成しているな」と感心したのですが、当たり前でしたね。
※: あのボディ・スーツは、一般には「トロン・スーツ」と呼ばれています。でも、あのグリッド内でそう呼ぶのはおかしい。「トロン」はたんなる個人名だから。グリッドの世界では、「ライト・スーツ」と呼んでいるのでは?
実写で撮影する部分と、CG で作る部分との使い分けが進むと、どんな映像でも自然に創造できるのでしょう。そうなると、近い将来には、倫理面と肖像権だけの問題でしょうね。──何がかって?
レオナルド・ディカプリオやブラッド・ピットが、ジェームズ・ディーンやマリリン・モンローと共演する映画です!
温故知新はどこまで続く?
幸か不幸か、映画ファンのくせに自分は、前作の『トロン』を観ていません。そのため、純粋に『トロン: レガシー』を評価できる。
そういう目で見ると、何だか意味不明でぎこちないシーンが、ところどころ目につきます。おそらく、前作で似たような場面があって、そのオマージュなのでは──と感じました(ケヴィン・フリンの部屋を探索する場面があやしい)。
近未来を描いた SF 映画でよく言われていることは、「どれも『ブレードランナー』を超えられない」です。自分も、強くそう思う。
この完全無敵な SF 映画は、退廃的な近未来の映像で圧倒しました。観客を──映画監督を──美術担当者を。そのため、「『ブレードランナー』以降」の SF 映画は、どこか似たようなニオイがする。
現実世界では、いっこうに車は空を飛ばないのに……。
『トロン: レガシー』に出てくるグリッドは、近未来の世界ではありません。昔の人間が考えたような未来像──レトロ・フューチャーという感じです。『ブレードランナー』の呪縛を、ギリギリ逃れているようにも見える。
ところが──、親しげな女性プログラムのサイレン・ジェム(ボー・ギャレット)が雨よけに使っているのは、やっぱり「傘」だったのです! この場面を見て、場内で自分ひとりが苦笑していました。
『トロン: レガシー』も『ブレードランナー』も、「収納可能なバイク」や「空飛ぶ車」は想像・創造できるのに、雨が降ったらせいぜい「光る傘」を差すしかない。自然には勝てません。
つまり、傘──「われわれの頭上を覆うモノ」こそが、人間の想像力の限界を現している。
余談
今回も、タイトルはゲーテの格言から借りました。
最も不自然なものもまた自然である。至る処に自然を見ない者は、どこにも自然を正しく見ない。
自然の劇は常に新しい。なぜなら彼女は常に新しい観客を作るから。生命は彼女の最も美しい発明である。死は多くの生命を持つための彼女の技巧である。
人は自然の法則に従っている。たといその法則に反して働いているような時でも。自然の絶頂は愛である。愛によってのみ人は自然に近づく。
『ゲーテ格言集』 p.54
自然の美を表した言葉が、なぜか『トロン』の世界観にピッタリです。
グリッドは完全なデジタルの世界だし、「人間」はケヴィンひとりしかいない。だけど、プログラムたちは人間そのものに見えます。それに、人間でもプログラムでもない「彼ら」の存在も、自然や神を感じさせる。