『魔法少女まどか☆マギカ』 (PUELLA MAGI MADOKA MAGICA)
この作品は、「かわいらしいデコレーション・ケーキ」のようなアニメでした。ときどき、すっぱかったり苦かったりする部分(第 3・6・9 話)があるけれど、食べ終わった人は、皿に残ったクリーム(謎の白い液体?)を見て、「あー、おいしかった!」と言う。
ところが、甘いお菓子には、遅効性の毒が盛られていたのです──。違和感を覚えつつ、何度も何度も食べていると、ようやく その毒に気がつく。
一見すると、まだまだ先があるような、可能性を感じる終わり方に感動しますが──、この上ない悲劇だと自分は思いました。ちりばめられた毒を寄せ集めてみると、致死量を十二分に満たしています。それに気がつかないほうが、幸せなのかも。
とはいえ──、作品を楽しむためには、「物語を正しく解釈すること」は それほど重要ではありません。自分の目で見て感じたことと、自分の頭で考えたことが、何よりも大事だと思う。
「『まど☆マギ』の最終話を、自分はこう観た」という感想を、以下に書きました。どうぞ、ご覧ください。
じつは、昨日の第 11 話の感想から気をつけたことは、「ほかの作品の名前を出さないこと」でした。「あの作品に似ている」という事例を挙げることは、その作品を知っていれば誰でもできるけれど、何かが違う。
たとえるならば──、子どもに「恋って何?」と聞かれて、「古くは、異性に限らず、植物・土地・古都・季節・過去の時など、目の前にない対象を慕う心にいう」と答えるようなもので、ちょっと恥ずかしいぞ。自分の心から出てきた気持ちと言葉を大切にしたいです。
第 12 話 「わたしの、最高の友達」
とてつもなく巨大な願い
ついに、その時がやってきました……! まどかが魔法少女になる瞬間は、初めて描かれましたね。第 10 話にも出てきませんでした。過去の彼女(たち)は、何を願ったのでしょうかね……?
さあ、かなえてよ、インキュベーター!
と叫ぶ まどかは、「マスコット・キャラに対して願い事をする魔法少女」とは、とても見えませんね。なんという漢(おとこ)らしさ……!
「いつ、まどかはインキュベーターという名称を知ったのか?」と疑問に感じた人は、第 11 話を見直しましょう。キュゥべえは自分たちのことを、そう呼んでいます。
カレとカノジョの事情
上条恭介のことは、それこそ「なかったこと」にするのかと思いきや、きっちりと描いてきましたね。まどかの家族もそうですが、登場人物を大事にしています。
舞台の幕で彼を見守る志筑仁美には、「近い近い!」と笑った人もいるでしょう。あれは、「望遠のレンズで撮影した」という作画だからです。望遠レンズを効果的に使うと、ギュッと距離が近くなったように映る。恋人同士の心の距離感を示しているわけですね。
参考: @nifty:デイリーポータルZ:望遠レンズで電柱を撮るとすごい
この作品には、映画を意識した画作り(えづくり)が多く見られます。たとえば、第 11 話の冒頭で、キュゥべえが ほむらを問い詰めるシーンでは、彼の顔がだんだんと ゆがんでいきました。広角(魚眼?)のズームレンズで撮影した効果を模している。
そのほか、画面の周辺が暗い(周辺光量が不足している)場面や、大口径レンズの「ボケ」のような画面が出てきました。映画とカメラ・レンズが好きな自分には、それだけで楽しくなってきます。
さやかの願い
今回の話で、もっとも理解しにくかったのは、美樹さやかと鹿目まどかとの会話でした。
普通に見ていると、「よく分からないけれど、さやかが納得していたから、彼女は救われた──ハッピィ・エンドだろう」と思わされる。
- 鹿目まどか(神):
- 「ううん、違うよ」(笑顔で)
──そう、パッと見の映像とは正反対の、まるで救われていない場面だと自分は考えました。
まず、恭介が審査を受けている場面は、幻想なのです。まどかのセリフを、もう一度聞いてみましょう──。
- 鹿目まどか:
- 「さやかちゃんを救うには、何もかも なかったことにするしかなくて──、そしたら、この未来も消えてなくなっちゃうの」
また、まどかが さやかと一緒に立ち去るシーンと、異空間が消えて魔法少女たちが現われるシーンとは、つながっていないように見えます。ここは、わざと分かりにくく作っているように感じました。
自分の解釈では、「(たぶん仁美の件で)ヤケを起こした さやかが、魔獣に対して無意味に全力を出した」と思っています。言葉を選ばなければ、「犬死に」と言ってもいい。つまり、穢れ(けがれ)をため込んで魔女になった、ほかの時間軸と変わりません。
けっきょく、自分の恋も実らず、幼なじみの成功も見届けることもなく、孤独なまま消滅してしまう魔法少女のために、神は「願いが叶ったあとの世界」(の疑似体験)を見せてあげる。──自分は、そう理解しました。
数々の歴代 魔法少女たちが、死の間際に微笑んでいるのは、願いの行く末を神に見せられたからでしょう。
皮肉なことに、どうやら恭介は、数年後に大成功しているらしいのです(彼の衣装も観客も変わっている)。その姿を見届けることなく、さやかは消えてしまった──。
- 美樹さやか:
- 「あたしはただ、もう一度、あいつの演奏が聴きたかっただけなんだ」
- 「あのヴァイオリンを、もっともっと大勢の人に聴いてほしかった。」
- 「それを思い出せただけで、十分だよ。もう何の後悔もない」
さやかは、恭介に対する最初の願いを思い出せただけで十分
──と言っています。「恭介の成功を見届けられた」でも「彼に思いが届いた」でもなく、自分ひとりの納得だけが、彼女の救いだという──。
なんて悲しい話でしょうか。
神はいつでも正しい?
魔女が魔獣に変わっただけで人間は襲われ続けているし、キュゥべえにはあいかわらず感情がないし、(たぶんマミさんはマミったし、)ほむらは孤独に戦い続けている。
神となった まどかの力は、魔法少女と魔女のルールを書き換えるだけではなく、宇宙全体も再構築してしまいました。過去と未来・別の時間軸にまで干渉できるのであれば、それくらいの改変が起こっても当然でしょう。
しかし──、それほど膨大な力があるなら、すでに まどかは「エントロピーを凌駕」している。宇宙の熱量死なんて、かんたんに解決できるはずです。すくなくとも、「地球の人類が滅亡するまで」という短期間の宇宙を見守るだけで十分でしょう。
ここで重要なことは、上で書いたようなことは、脚本を書いた虚淵玄氏や監督の 新房昭之氏なら、絶対に気がついているはず──ということです。ようするに、すべて分かった上で、ほむらを戦場に送り出している。
ほむらの戦い(の終わり)
エンド・クレジットのあと、ほむらが魔獣たちと戦っている場所は、たんなる砂漠地帯ではなく、何百年・何千年後の荒れ果てた地球(見滝原?)なのでしょうか。
暁美ほむらは、けっして「世のため人のため」に戦っていたのでは ありません。そんなことを思ったことは、彼女の人生で一度もなかったのでは? ただただ、まどかが守ろうとした世界だから──という理由だけで戦い続けている。彼女もまた、人間を超えた存在ですね。
まがまがしい翼を広げる彼女は、1 つの声を聞きます。これは幻聴ではなく、本当に まどかの声でしょう。
- 鹿目まどか:
- 「いつかまた、もう一度ほむらちゃんとも会えるから」
- 「それまでは、ほんのちょっとだけお別れだね」
──そう、あの時の言葉の真意は、ほむらが消滅する直前に、まどかが迎えに来るということですね。ラストの映像が終わった直後に、おそらく──彼女たちは再会したことでしょう。
ほむらが まどかに会うためには、魔法少女としての生を終えるしかなかった。最後までよく、絶望して自分の意思で命を絶たなかったですね……。
おわりに
最後まで読んでいただけた人に、感謝します。ありがとう!
「あー、面白かった! でも、まどかは間違っているよね」──という感想を記事に書こうとすると、上のように長文になります。自分には どうしても、もっと良い まどかの願いがあったはず──と思ってしまいました。
ただ、「魔法少女の 5 人が協力し、ワルプルギスの夜を倒して、めでたし!」というありがちなエンディングだと、何も解決していない。
まどかの選択が正解かどうかは ともかくとして、この作品が素晴らしいことには変わりがありません。何度でも最初から見直して、思いついたことがあれば記事にします。まだまだ、楽しむぞ!
今回の前半で、巴マミと佐倉杏子が出てきてビックリしましたが、あれは まどかの想像上の世界だと思います。まどかは、最初から最後まで、ずっと魔法少女のことだけを見続け・思い続けてきました。魔法少女の先輩に、認めて欲しかったのでしょう。
ということは──、元をたどっていくと、第 1 周目の時間軸で巴マミと出会ったことが、魔法少女・まどかが神──「円環の理」(えんかんのことわり)(マミが命名?)になった原因です。
やはり、巴マミが黒幕だった……!(なんというオチ)