映画・『アバター』 現実の続き・夢の終わり・そして現実への帰り方

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『アバター』(Avatar)

We have come to take over your planet
(エイリアンをやっつけろ!──という映画ではない)

──注意: 以下の文章は、『アバター (山田 悠介)』ではなく、ジェームズ・キャメロン監督の映画について書きます。あと、「アバターもエクボ」ともおそらく無関係だと思う──

世の中には、絵を描くことが上手な人たちがいます。彼ら・彼女らの一部には、「才能の無駄遣い」や「神!」といった、賛辞と尊敬と──そして若干のナレナレシサが込められた言葉が贈られる(若干か?)。

なぜかというと、日本であれば pixiv、海外では(詳しくないけれど)deviantART などの場所で、プロ顔負けの作品を無料で公開していたりするからですね。

ただ──、聞いた話では、いくら絵が上手だからと言って、絵を描くことを職業にして食べていくことは、難しいそうです。毎月毎週毎日、同じイラストレータの作品を見ることは、あまりないですからね……。

でも、絵を描く人の需要は、確実にあるはずです。

たとえば、この映画を見る前に、「アバター」と聞いて真っ先に頭に浮かんだのは──、

やたら頭が大きくて、目が異常にキラキラと輝いていて、そしてベラボウに着替えとアイテムのバリエーションが豊かな──あのキャラクタたちのことでした。

アバター – Wikipedia

そう、「アバターを描ける人」の需要って、かなり多そうなんですよね。「pixiv 出身のアバター作家」が出てきそうな気がします。

「一生、絵を描いて生きていける」なんて、好きな人にとっては夢の世界でしょう。まさしく、夢を現実にした話です。

──おお、ようやく映画の『アバター』と関連してきましたね。もちろん、最初から脱線することなく、映画の話を語ろうと思っていたのですよ!

ということで、映画『アバター』は、「夢と現実」との間で揺れ動き、戦う主人公を描いた作品です。同じテーマで描かれた作品は多いし、『アバター』も同じなのでは? と思って見ていると──、

最後にビックリした! そう来たか!

『アバター』は、「現実へ帰れ」という言葉の意味を、21 世紀的な切り口で見せた作品です。

「超」が 128 個つくくらいにキレイな映像ばかりが取り上げられる作品ですが、描かれているテーマも味わい深い、満点をつけたくなる作品でした。

自分の愛する人と一緒に見て欲しい映画です。

美しい世界

上下の章でいろいろとゴチャゴチャ言っていますが──、ただただ美しい惑星──「パンドラ」に見とれるというのが、この映画の正しい見方かもしれません。

スタッフたちと監督は、惑星パンドラという「世界観」──というよりも「世界」を作った、と言えます。「CG のようで CG じゃないちょっと CG な映像」にドップリ浸っていると、本当に自分がパンドラにいる気がしてくる。

残念ながら劇場では見逃しましたが、巨大スクリーンで見れば、もっと臨場感があったでしょうね。あと何年かしたら、バーチャルリアリティリアリティ部分が濃い体験を、家庭にいながら味わえるでしょう。

それに、ものすごく分かりやすいんですよ! パンドラへの入り口をテイネイに描いています。

たとえば、主人公「ジェイク」なんて、始まって数分で「何か性格悪そうだな」というのがすぐ分かる。戦争で足を負傷したため、いろいろとツラい目にあって、それで性格がねじ曲がったのだろうか──。でも、ヒクツにはなっていないから、精神的には強そうだな──、と伝わって来ます。

そして、ロボットがクレーン車なみに普通の存在であることや、「弓矢を放つ先住民族がいること」などが、スルスルと頭に入ってくる。

そして、肝心の「アバターとは何か」という部分も、一発で理解できます。

とにかく、「──いまの何?」がほとんどない映画で、安心して物語を味わえる。

この分かりやすさは、ほかの映画も見習って欲しいですね。最近、「謎を残すことで話題性を生む」という作品ばかりです。謎を見せるのはいいけれど、見せ方は受け取りやすくしてほしい。

登場人物たち

ブルーレイや DVD のパッケージに写っているのが、ヒロイン「ネイティリ」です。

彼女を初めて本編で見た時には──ちょっとショックでしたね。なんというか、すぐには好きになれそうもない感じ。それに、彼女たち部族「ナヴィ」が何人も出てくるけれど、見分けがつかない……。

──というのにも、すぐに慣れますよ。映画の前半が終わるまでには、誰が誰かも分かるし、ネイティリのかわいらしさにゾッコン・ラヴです。

主人公のライバルとなる「ツーテイ」も味のあるキャラでした。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で言えばビフ──で伝わる人も多いでしょう。

地球人であるグレイス博士を演じたシガニー・ウィーバーは、もうすっかりお母さんという感じでしたね。ただし、自分のような 30 代を子どもに持つ、お母さんですが……。

「現実」って?

『アバター』は、構想14年、製作に4年以上の歳月を費やして完成させたそうですが、14 年前(18 年前?)といえば、20 世紀末でした。

ちょうど同じころ、『新世紀エヴァンゲリオン』や『マトリックス』・京極夏彦作品・森博嗣作品なども、

「現実とは何か」

をテーマにして作られています。自分はこの時代の「空気」・「気分」のことを、

「20 世紀末は認識論を語りたい時代」

と(格好つけて)呼んでいます。日記にも書きました。

『MATRIX』とは 20 世紀末の気分 – 亜細亜ノ蛾 – ダイアリー

現実への帰る、とは

さて、21 世紀に入って 10 年近くが過ぎて(21 世紀は 2001 年から)、いまさら「夢と現実」というありふれたテーマを『アバター』が描いても、古いだけでは? そう思いながら見てみると──、最後に驚かされる。

あの終わり方は、映画をダシにして子どもの教育に使おう──という限りなく不純な動機で見せようとする親にとって、都合の悪い結末なハズ。ヒキコモリが見たら喜びそうな、理想的な最後ですからね。

でも──、それは映像の表面だけを見ているからそう思うだけで、内面までしっかりと見れば、

「自分自身の知恵と力をふりしぼって、つらい現実世界と戦い、自分自身で勝ち取った未来

とも取れる。けっして、ただたんに夢の世界へ逃げ込んだ──ワケではないのです。

夢の終わりに

『アバター』のラストシーンを見終わると、『劇場版・新世紀エヴァンゲリオン Air / まごころを君に』を思い出しました。

シンジ
「じゃあ、僕の夢はどこ?」
レイ
「それは、現実の続き」
シンジ
「僕の、現実はどこ?」
レイ
「それは、夢の終わりよ」

この場面で『エヴァ』の監督が伝えたかった言葉の意味と、『アバター』とでは、似ているようで違う。でも、違うようで同じ気もする。

たぶん、両作品の監督は、同じメッセージを送りたかったのでは、と思いました。

「現実とは何か、夢とは何か、自分はどこへ向かうべきか──を自分の頭で考えろ