『アバター』(Avatar)
──注意: 以下の文章は、『アバター (山田 悠介)』ではなく、ジェームズ・キャメロン監督の映画について書きます。あと、「アバターもエクボ」ともおそらく無関係だと思う──
世の中には、絵を描くことが上手な人たちがいます。彼ら・彼女らの一部には、「才能の無駄遣い」や「神!」といった、賛辞と尊敬と──そして若干のナレナレシサが込められた言葉が贈られる(若干か?)。
なぜかというと、日本であれば pixiv、海外では(詳しくないけれど)deviantART などの場所で、プロ顔負けの作品を無料で公開していたりするからですね。
ただ──、聞いた話では、いくら絵が上手だからと言って、絵を描くことを職業にして食べていくことは、難しいそうです。毎月毎週毎日、同じイラストレータの作品を見ることは、あまりないですからね……。
でも、絵を描く人の需要は、確実にあるはずです。
たとえば、この映画を見る前に、「アバター」と聞いて真っ先に頭に浮かんだのは──、
やたら頭が大きくて、目が異常にキラキラと輝いていて、そしてベラボウに着替えとアイテムのバリエーションが豊かな──あのキャラクタたちのことでした。
そう、「アバターを描ける人」の需要って、かなり多そうなんですよね。「pixiv 出身のアバター作家」が出てきそうな気がします。
「一生、絵を描いて生きていける」なんて、好きな人にとっては夢の世界でしょう。まさしく、夢を現実にした話です。
──おお、ようやく映画の『アバター』と関連してきましたね。もちろん、最初から脱線することなく、映画の話を語ろうと思っていたのですよ!
ということで、映画『アバター』は、「夢と現実」との間で揺れ動き、戦う主人公を描いた作品です。同じテーマで描かれた作品は多いし、『アバター』も同じなのでは? と思って見ていると──、
最後にビックリした! そう来たか!
『アバター』は、「現実へ帰れ」という言葉の意味を、21 世紀的な切り口で見せた作品です。
「超」が 128 個つくくらいにキレイな映像ばかりが取り上げられる作品ですが、描かれているテーマも味わい深い、満点をつけたくなる作品でした。
自分の愛する人と一緒に見て欲しい映画です。
美しい世界
上下の章でいろいろとゴチャゴチャ言っていますが──、ただただ美しい惑星──「パンドラ」に見とれるというのが、この映画の正しい見方かもしれません。
スタッフたちと監督は、惑星パンドラという「世界観」──というよりも「世界」を作った、と言えます。「CG のようで CG じゃないちょっと CG な映像」にドップリ浸っていると、本当に自分がパンドラにいる気がしてくる。
残念ながら劇場では見逃しましたが、巨大スクリーンで見れば、もっと臨場感があったでしょうね。あと何年かしたら、バーチャルリアリティのリアリティ部分が濃い体験を、家庭にいながら味わえるでしょう。
それに、ものすごく分かりやすいんですよ! パンドラへの入り口をテイネイに描いています。
たとえば、主人公「ジェイク」なんて、始まって数分で「何か性格悪そうだな」というのがすぐ分かる。戦争で足を負傷したため、いろいろとツラい目にあって、それで性格がねじ曲がったのだろうか──。でも、ヒクツにはなっていないから、精神的には強そうだな──、と伝わって来ます。
そして、ロボットがクレーン車なみに普通の存在であることや、「弓矢を放つ先住民族がいること」などが、スルスルと頭に入ってくる。
そして、肝心の「アバターとは何か」という部分も、一発で理解できます。
とにかく、「──いまの何?」がほとんどない映画で、安心して物語を味わえる。
この分かりやすさは、ほかの映画も見習って欲しいですね。最近、「謎を残すことで話題性を生む」という作品ばかりです。謎を見せるのはいいけれど、見せ方は受け取りやすくしてほしい。
登場人物たち
ブルーレイや DVD のパッケージに写っているのが、ヒロイン「ネイティリ」です。
彼女を初めて本編で見た時には──ちょっとショックでしたね。なんというか、すぐには好きになれそうもない感じ。それに、彼女たち部族「ナヴィ」が何人も出てくるけれど、見分けがつかない……。
──というのにも、すぐに慣れますよ。映画の前半が終わるまでには、誰が誰かも分かるし、ネイティリのかわいらしさにゾッコン・ラヴです。
主人公のライバルとなる「ツーテイ」も味のあるキャラでした。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で言えばビフ──で伝わる人も多いでしょう。
地球人であるグレイス博士を演じたシガニー・ウィーバーは、もうすっかりお母さんという感じでしたね。ただし、自分のような 30 代を子どもに持つ、お母さんですが……。
「現実」って?
『アバター』は、構想14年、製作に4年以上の歳月を費やして完成させた
そうですが、14 年前(18 年前?)といえば、20 世紀末でした。
ちょうど同じころ、『新世紀エヴァンゲリオン』や『マトリックス』・京極夏彦作品・森博嗣作品なども、
「現実とは何か」
をテーマにして作られています。自分はこの時代の「空気」・「気分」のことを、
「20 世紀末は認識論を語りたい時代」
と(格好つけて)呼んでいます。日記にも書きました。
『MATRIX』とは 20 世紀末の気分 – 亜細亜ノ蛾 – ダイアリー
現実への帰る、とは
さて、21 世紀に入って 10 年近くが過ぎて(21 世紀は 2001 年から)、いまさら「夢と現実」というありふれたテーマを『アバター』が描いても、古いだけでは? そう思いながら見てみると──、最後に驚かされる。
あの終わり方は、映画をダシにして子どもの教育に使おう──という限りなく不純な動機で見せようとする親にとって、都合の悪い結末なハズ。ヒキコモリが見たら喜びそうな、理想的な最後ですからね。
でも──、それは映像の表面だけを見ているからそう思うだけで、内面までしっかりと見れば、
「自分自身の知恵と力をふりしぼって、つらい現実世界と戦い、自分自身で勝ち取った未来」
とも取れる。けっして、ただたんに夢の世界へ逃げ込んだ──ワケではないのです。
夢の終わりに
『アバター』のラストシーンを見終わると、『劇場版・新世紀エヴァンゲリオン Air / まごころを君に』を思い出しました。
- シンジ
- 「じゃあ、僕の夢はどこ?」
- レイ
- 「それは、現実の続き」
- シンジ
- 「僕の、現実はどこ?」
- レイ
- 「それは、夢の終わりよ」
この場面で『エヴァ』の監督が伝えたかった言葉の意味と、『アバター』とでは、似ているようで違う。でも、違うようで同じ気もする。
たぶん、両作品の監督は、同じメッセージを送りたかったのでは、と思いました。
「現実とは何か、夢とは何か、自分はどこへ向かうべきか──を自分の頭で考えろ」