『ノーカントリー』 (No Country for Old Men)
『アレックス』と同じで、あらすじを書くだけなら 2 行で終わってしまうけれど、ずっと心に残る映画です。映像的にも内容的にも、「暴力的な映画」という点で両者は共通している。
『アレックス』 悪意と悪趣味の固まりのような超暴力映画 : 亜細亜ノ蛾
ずばり! 『ノーカントリー』は、こんな映画です:
- あらすじ:
- 「ギャングの金をパクったら、
おかっぱ頭のターミネーターが追ってきたでござる の巻」
言ってしまえば「これだけ」の内容の映画なのに、最後まで観客を引っ張っていく引力が すごい。その力の正体とは──。
ハビエル・バルデムが演じている、殺し屋のアントン・シガーが、素晴らしく不気味でした! この風変わりな殺人鬼の魅力で、122 分間の大半が成り立っている。
ジャンルで言えば「スリラー映画」に入りますが、ホラーと思って観たほうが分かりやすいでしょう。「家族愛」や「夫婦愛」も一応は出てくるけれど、いっさい期待せず、仲の良い友だちか恋人と・あるいは 1 人でゆっくりとお楽しみください。
殺し屋の素顔
アントン・シガーの言動に恐怖する──。これこそが、この映画の最大の見どころです。現実世界で彼に出会ったら、とにかく気味の悪い第一印象のまま、その気持ちは最後(最期)まで変わらないでしょうね。
ただ、シガーの印象を最悪にしている原因は、あの髪型のせいです。「おかっぱ殺人鬼」を演じたハビエル・バルデム自身は、普通の髪型をしているシブい俳優さんでした。
「産まれた時から殺し屋だ」という言葉がシガーの口から出ても、なんら不思議ではありません。それなのに、役者のハビエルは、あのヘア・スタイルも武器も嫌いだったらしい。シガーとハビエルは、正反対の人間──というところが面白いですね。
「何かある」と思わされる
じつは、最後の最後で「あれ?」と肩すかしを食らった気分になります。しかし、そこにも仕掛けがあるのでは──と自分は思っている。それについては、あとで書くとして──。
監督は、ジョエル・コーエンとイーサン・コーエンのコーエン兄弟です。『バーン・アフター・リーディング』という、「たんなるおバカ映画」──で終わらない傑作を作ったコンビだからこそ、「何か」を感じさせるのでしょう。
バーン・アフター・リーディング – 恋人の欠点は美点──と思いたい : 亜細亜ノ蛾
そもそも、保安官であるエド・トム・ベルのモノローグで、最初も最後も飾っているところが怪しい。せっかくトミー・リー・ジョーンズが演じているのに、彼は BOSS でも なんでもありません。世を はかなんでいる、ただの 1 人の老人です。
原題からすると、この映画の主人公は Old Men であるエドのはずなのですが──、どう見ても「追われる者」のルウェリン・モス(ジョシュ・ブローリン)と「追う者」のシガーの物語なんですよね。
エドの役割は、いったい何だろう?
シガーの武器
アントン・シガーは、「ボンベを持ち歩く殺し屋」という新ジャンルを開拓しました。ドアノブを吹き飛ばしていた器具は、「屠殺(とさつ)用の空気銃」です。作中で、(意味深に)エドが説明していましたね。
映画ノーカントリーのシガーについて ガスボンベで相手を打ち抜いていましたが….. – Yahoo!知恵袋
この「シガーと言えば空気銃」という情報(とくに「銃」の部分)が一人歩きをして、モーテルで男たちを血祭りに上げた「先端に銀色の筒を付けた銃」も、空気銃と思っている人がいました。──いやいや、違いますよ!
あれは、サプレッサ(消音器)を付けたショット・ガンです。ほかの作品では、なかなか見ない武器ですよね。散弾の破壊力と静けさが何だか矛盾を はらんでいて、シガーにピッタリの銃です。
おわりに
この映画を熱中して観ていた観客(自分)には、ラスト・シーンは不満が残るところです。「モス対シガー」の再戦がムリならば、「エド対シガー」の対決を見たかった。これは、誰でも同じ感想を持つでしょう。
なぜ、あのような終わり方をしたのか──。
そして、おかしな点がいくつも目につきます。
- シガーが落とした銃を、なぜモスは拾わなかった?
- 何ごともなかったように、あとで同じ銃を使うシガー
- カーラ(ケリー・マクドナルド)は、なぜ身を隠さなかった?
- エドがカーラに屠殺(銃)の話をする不自然さ
- カーソン・ウェルズ(ウディ・ハレルソン)が有能すぎる
- いくらなんでも、あんなにすぐカバンは見つからない
- カバンの引き上げを後回し・人任せにする理由は?
- そこまで有能なのに、なぜ尾行には気がつかない
- 封鎖されたモーテルにシガーが戻ってきた意味は?
- そこへタイミング良くやって来るエド
- さらに、あの状況でシガーは本当に逃げられるのか?
『マトリックス』であったような「さっき開けたはずの車のドアを、もう一度開ける」みたいな映像のミスではなく、『ノーカントリー』は意図的に不可解なシーンを入れている──ように見えました。
これらは、1 つの結論へと向かう。すなわち──、
すべては、エド保安官の妄想だった。
これがデヴィッド・リンチ監督の映画であれば、98 割は夢で間違いない。コーエン兄弟の作品である『ノーカントリー』では──、どうなのだろう。
『マルホランド・ドライブ』 不可思議な世界と二人のヒロイン : 亜細亜ノ蛾
上記のように、自分は「エドの妄想説」を推します。しかし、それは「引退した老人の楽しみ」という意味ではなく、「今後も世の悪と戦う決意」と受け取りました。
つまりは、エンディングのあと、シガーのような悪人と向き合うために、どこかへエドは出かけていくのでは──。
蛇足
久しぶりに、タイトルはゲーテの言葉を借りました。もしもエドが、正義漢の強い保安官であり続けたのならば、下の文を読んで黙って いられないはずです。あなたが見たエドは、どうですか?
老人は、人の世がひたすら変化なく平穏であり続けることを、望む。そのための法を、若者や女性に押しつける。
だが、前向きに生きようとする若者と女性は、そんな世にあって「例外の存在」になろうとする。
『超訳 ゲーテの言葉』 p.112