『バクマン。』 25 ページ 「嫉妬と愛」 (週刊少年ジャンプ 2009 年 12 号)
女性からウットリと見つめられた──そういった経験があるだろうか。覚えのある方は退出いただくとして──(半分は冗談)。
そのような経験が自分にはない。「一般的な成人男性」には普通にあることなのだろうか? そもそも、自分が女性と付き合ったのはハタチを大きく超えてからだ。中高生時代には当たり前に経験しているべきナントカをいくつも通り過ごしてきた。いまになって、少し惜しい気持ちがある。
しかし──ああ言えばあのコに好かれたとか、あの時の選択しだいではモテたとか、そんなターニングポイントはなかったように思う。つまりは、自分が自分であるがゆえに、そこまで女の子に好かれなかったのでは、と。
人から好かれるために必要なモノを生まれつき持っている人がいる。そして、そういう人しか本当の意味ではモテないと思う。ファッション指南のブログ記事を読みあさったり、「脱オタ」を目指したりすることは良いが、そうした努力で解決できない領域がある。
これは、「休日に草野球を楽しむオトーサンも、努力さえすればイチローやノモを超えられる──のか?」という話と同じに思うのだ。
別に、努力が悪いとも無駄とも言っていない。ただ、こざっぱりした格好を志したり、ファッションを勉強したり、あるいはモテるために努力すること──そのものを楽しめないのなら、そこまで労力や時間を費やすのはどうか、と思う。
あ、いま唐突に、「わざわざ努力してモテようとする」姿勢のどこに自分が違和感や嫌悪感を感じているのか、ようやく分かった。
あんまり熱心に見ていなかったが、自分は『101回目のプロポーズ』みたいな話が好きなのだ。抽象すると、1 人の女性に対してどこまでも深い愛情を注ぐ男の話である。このような精神が「モテたい」という発言にはない。
そもそも、「モテたい」という発想には、いろんな枕詞が付く。「誰でもいいから」とか、「俺を好きになってくれる女の子に」とか、「できれば胸が豊かだったり ひかえめだったり、おとなしかったり積極的だったり大胆すぎたり○学生だったりする、20 人くらいの同居人から」とか──。そういった自分勝手で無責任な態度では、トラックの前に飛び出して叫ぶ勇気も出てこない(そろそろ通じなくなっているだろうな、この名場面)。
ということで、シュージンのようにマンガのネームを描いたからモテる──と勘違いせぬよう……(それを言うために原稿用紙 2 枚分以上の文章を書いた)。